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第一航空隊(だい1こうくうたい)および1942年(昭和17年)11月1日に改称した第七五二海軍航空隊(だい752かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。特設の陸上攻撃機部隊として、太平洋戦争全期間で爆撃・攻撃・偵察行動に従事した。太平洋戦争前から編成された陸攻隊の中で、唯一終戦まで断絶することなく部隊を維持した航空隊である。 なお、一空の原隊である台湾新竹飛行場には、練成航空隊として新竹海軍航空隊(しんちくかいぐんこうくうたい)が設置されたので、本稿にて合わせて述べる。 ==沿革== ===第一航空隊=== 日中戦争において海軍は6個陸上攻撃機航空隊を編成し、中国奥地への爆撃を交代で実施していたが、対米英戦を考慮して陸上攻撃機部隊の増強を図ることとした。そのため、内南洋哨戒・敵艦隊迎撃を念頭において編成し、1941年4月10日新竹飛行場で開隊した。第四艦隊第二十四航空戦隊に編入。定数、九六式陸上攻撃機36機・九六式艦上戦闘機24機。編成後の訓練を終えると、5月24日千歳海軍航空隊とともに内南洋に進出し、6月末まで実地訓練を積んだ。7月25日中国大陸の奥地爆撃を強化するため、漢口に進出、102号作戦(重慶・成都爆撃)に従事。9月1日新竹に帰還。第十一航空艦隊第二十一航空戦隊に移籍。フィリピン侵攻作戦の尖兵として一空・高雄海軍航空隊、台南海軍航空隊・第六航空隊を擁する強襲部隊として第二十一航空戦隊が編成された。 1941年12月1日開戦に備え台南飛行場に移動、戦闘機隊は全て台南海軍航空隊に譲渡する。12月8日開戦、高雄空・台南空と合同し、27機でクラーク飛行場を爆撃。以後、7回にわたり台南よりフィリピン各地を爆撃。12月16日鹿屋海軍航空隊の香港爆撃に協力。12月18日リンガエン湾上陸部隊船団を護衛。12月26日バターン半島・コレヒドール島への集中爆撃を翌年1月6日まで実施。1942年1月セラム島アンボン・セレベス島ケンダリに進出する。蘭印攻略が進む中、米豪分断のために外南洋の拠点としてラバウルを占領し、強化することになった。マーシャル諸島に展開する千歳空の派遣が困難なため、一空が代わって「ラバウル航空隊」の嚆矢として派遣されることになった。1942年2月20日トラック諸島に向けアンボン発。22日着。2月23日ラバウルに偵察機3機を派遣。2月24日前日にウェーク島が空襲されたため、10機をルオット島経由でヤルート環礁タロア飛行場に派遣。2月27日ポートモレスビーを爆撃。以後、10回にわたりニューギニア各地を爆撃。1942年3月5日ラバウルに進出。3月8日ラエ・サラモア攻略作戦発動、17日に完遂するまで支援活動に従事。4月1日二十四航戦に復帰、十一航艦に転入。戦闘機隊を再編。 千歳空のラバウル派遣計画は、千歳空と高雄空から捻出した機体による第四航空隊で実現することになり、代役だった一空は編成当時の目的であった内南洋哨戒の任務に就くことになった。1942年4月4日ラバウル発。10日までにタロア着。4月18日ドーリットル隊追撃、会敵せず。5月31日ミッドウェー島攻略作戦の事前偵察を開始。作戦失敗・撤退まで継続。8月7日ウェークに18機派遣。マーシャル諸島各地で対潜掃討、戦果なし。8月17日マキン島に敵上陸。偵察および銃撃に陸攻24・戦闘機4を派遣。8月26日ナウル・オーシャン攻略作戦発動、爆撃支援。8月30日戦闘機隊をラバウルに派遣、航空母艦大鷹で輸送。9月14日標的艦矢風、タロアに到着。10日間にわたり対艦爆撃訓練を実施。10月15日米巡洋艦ポートランド、タラワ島に艦砲射撃。9機で追撃するが会敵せず。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第一航空隊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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