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第三図南丸(だいさんとなんまる)は、日本水産が所有していた捕鯨母船。 == 概要 == 大阪鉄工所(後の日立造船)大阪桜島造船所で建造され、1938年9月23日に竣工した。1万9206総トン。太平洋戦争前は主に南極海での捕鯨に使われていた。太平洋戦争直前の1941年11月に日本海軍によって徴用され、石油や物資の輸送を行った。 第三図南丸は太平洋戦争中に数度、米潜水艦の雷撃を受けた。1943年7月24日にティノサ(''USS Tinosa, SS-283'')の魚雷を受けた際には、ティノサは合計15本の魚雷を発射しそのうち12本が命中したが、魚雷の信管の不良のため、爆発したのは2本のみで、残りは全て不発だった(当時のアメリカ海軍は、信管の不良に悩まされていた)。しかし爆発した魚雷がスクリューにダメージを与えたため自力航行が出来ず、トラック島まで曳航された。損害の大きさから、第三図南丸は油槽船(タンカー)としてではなく海に浮かぶ重油タンクとしてしばらくトラック島にとどまる事になる。なおこの時、船体に魚雷が突き刺さったままの姿が髪にかんざしを差した花魁(おいらん)のようであった事から、「花魁船」と言われた。 トラック島で工作艦明石が長期にわたる修理を実施した結果、1943年11月に再び「船」として復帰し、輸送任務に就くことになった。 1944年2月17日、輸送任務中トラック島に立ち寄っていた第三図南丸はアメリカ軍によるトラック島空襲に遭遇して被弾炎上し、18日2時10分に沈没した。 戦後、南極海での捕鯨を再開した日本水産が高性能な捕鯨母船を必要としたため、第三図南丸が再就役可能か調査が行われ浮揚可能・修理可能の判断が下された。1951年に浮揚され、日本まで曳航されて、播磨造船所(現・IHI)で修理がおこなわれた。なお、浮揚させる時は陸から引っ張ったりせずに日本から来た船だけで浮揚に成功させている。これは国内で撃沈された艦船の浮揚・解体で、高い技術を持っていたからできた事である。 第三図南丸は捕鯨母船としての再就役にともなって、図南丸、第二図南丸は戦没していたため船名を図南丸と変更し、再び南極海での捕鯨に従事することになった。タンカー改装の橋立丸に替わって第6次南氷洋捕鯨(1951/52年漁期)から日本水産の母船として出漁している。1971年に広島県呉市の対岸、江田島で解体された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第三図南丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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