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第九飫肥役(だいきゅうおびえき)とは、永禄11年(1568年)日向南部を狙う伊東義祐が、豊州家の島津忠親を城主とする飫肥城を攻略した合戦とそれを救援するために出陣した北郷時久軍を撃破した戦い(小越の戦い)。 80年以上にわたって続いた伊東氏と島津氏による飫肥城をめぐる攻防戦における事実上最後の戦い。 == 合戦の背景と概要 == 文明16年(1484年)に日向中北部を支配する伊東氏が飫肥に侵攻するもこの戦いで当主伊東祐国が戦死。これ以降伊東氏にとっての因縁の城となった。 天文5年(1536年)に伊東義祐が伊東家の当主となると義祐は飫肥を領する島津豊州家と日向南部の権益をめぐって激しく衝突。 幾度となく飫肥城攻略を目指し、1562年に一度は攻略に成功するもわずか半年後に再び奪い返されるなど一進一退の攻防が続いていた。 永禄11年(1568年)1月9日、九回目の戦いで城の攻略を目指す義祐は総勢2万と号する大軍を率いて佐土原城を出陣。 同11日に鬼ヶ城に諸軍を集結させ、13日に篠ヶ嶺に着陣した。 義祐は伊東祐基を総大将とし伊東祐梁に3800を与えて新山に、落合兼置、木脇祐守に11000を与え小越の南に、長倉祐並、川崎主税助に3200を与え乱橛ヵ尾に布陣させ、更に2600を遊軍として太腹鳶嶺、新山小俵などに配置して飫肥城を包囲した。(また日向纂記では残った400を番兵として篠ヶ嶺に置いたとある) その一方島津側でも北郷時久率いる6000あまりの軍勢が後詰として酒谷城に入っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第九飫肥役」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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