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第二号新興丸(だい2ごうしんこうまる)は、日本海軍が第二次世界大戦中に運用した特設砲艦兼敷設艦。東亜海運が所有する貨物船「新興丸」を徴用したもので、同名の特設砲艦との区別のため艦名に第2号と番号を付された。大戦終結時に樺太からの引揚民間人を輸送中、1945年8月22日にソ連海軍潜水艦の攻撃で損傷、多くの死傷者を出した(三船殉難事件)。 なお、日本海軍の同時期の特設艦船で「新興丸」の名を持つ汽船は他に2隻ある。特設砲艦「第一号新興丸」は丸井汽船の貨物船「新興丸」(934総トン)を改装したもので〔、1945年1月9日にボルネオ島沿岸でオランダ海軍潜水艦により撃沈された〔Cressman (1999) , p. 607. 〕。特設敷設艦「新興丸」は新興商船の貨物船「新興丸」(6479総トン)を改装したもので、1944年10月18日にルソン島沿岸で空襲により撃沈された〔岩重(2009年)、38頁。〕。 == 船歴 == 「新興丸」は、1939年(昭和14年)に浦賀船渠で竣工した。「新京丸」を1番船とする浦賀船渠設計の2000総トン級貨物船系列の1隻で、同系列でも船主ごとに細部の設計に差異が多いうち、「瑞興丸」と本船が回廊付きの船橋を有する完全な同型である〔。細部の異なる同系列船は17隻あるほか、逓信省が定めた統一規格船(平時標準船)C型も基本的に同設計だった。船体中央に機関部と船橋を置き、その前後に2つずつの倉口と単脚型のマスト1本ずつを配置したシンプルな船型である。うち後部船倉は倉口が2つ開いているものの、内部は区切られていない。「新興丸」の搭載主機は当時一般的な三連成レシプロエンジンではなく、浦賀船渠が開発した新型エンジンを採用しており、低圧シリンダーを蒸気タービンに変更したタービン付複二連成機関と呼ばれる方式である〔。三連成レシプロの「新京丸」と比べ200馬力以上も最高出力が向上した〔。 商船として竣工後、当初は大阪商船の持ち船だったが、まもなく東亜海運へ移籍している。新船主の東亜海運は、1939年8月に海運各社の現物出資で設立された国策企業であった〔「関係会社打って一丸 東亜海運会社設立―海運の総合力発揮へ 」『大阪毎日新聞』1939年8月6日。〕。 日米関係の悪化で対米戦準備が始まると、1941年(昭和16年)9月5日付で「新興丸」は日本海軍に徴用され〔海軍省兵備局 『昭和一八・六・一現在 徴傭船舶名簿』 JACAR Ref.C08050008000、画像17枚目。〕、9月20日に特設砲艦兼敷設艦へ類別されて海軍部内限りで「第二号新興丸」と改称した。特設砲艦兼敷設艦の標準武装は12cm砲を片舷に3門指向可能というものであるところ、写真の分析によると本艦改装完了時の兵装は船首・船尾・中央構造物後端に12cm単装砲各1基が設置されている〔。機雷関係の設備では後部甲板上に機雷移動用軌条が2列敷かれ、船尾楼を貫通して船尾から突き出し、そのまま海面へ連続投下可能となっている。後部船倉が機雷庫となり、定数で93式機雷120個を搭載した〔。なお、「新京丸」型は特設砲艦へ改装するのに手頃な性能であり、5隻が特設砲艦・本船を含む7隻が特設砲艦兼敷設艦として徴用されたほか、特設掃海母艦と特設電纜敷設船としても1隻ずつ徴用されている〔。 「第二号新興丸」は大湊警備府部隊、一時はその隷下の千島方面特別根拠地隊に属し、大戦の全期間にわたって北海道・樺太・千島列島方面で行動した。船団護衛や哨戒に従事している。戦術の変化に対応し、対空兵器の強化やレーダーの装備も実施された(要目表参照)。1943年(昭和18年)8月8日に樺太東方のオホーツク海上で、アメリカ海軍潜水艦「サーモン」による魚雷攻撃を受けるが、被害を免れた〔Cressman (1999) , p. 371. 〕。木俣(1993年)は、1945年(昭和20年)6月末に日本海軍が行った宗谷海峡への対潜機雷堰構築に「第二号新興丸」も参加したとしている〔木俣(1993年)、229-231頁。〕。 1945年8月9日のソ連対日参戦後、8月11日にソ連軍の侵攻で樺太の戦いが始まった。当時日本領だった南樺太には40万人以上の民間人が居住しており、樺太庁は民間人の本土引き揚げを図った。日本の陸海軍も輸送に協力することとなり、「第二号新興丸」も他の14隻の艦船とともに大泊港からの緊急輸送を命じられた〔中山(2001年)、177-179頁。〕。8月15日の日本のポツダム宣言受諾発表後も8月23日にソ連軍が島外移動禁止を発令するまで輸送は継続され、船団を組む余裕も無く、各個に避難民を収容して北海道へ脱出した〔。「第二号新興丸」も大泊で民間人約3600人を収容すると、8月20-21日の夜に単独で出航、9ノットの速力で小樽港へ向かった。8月22日午前5時過ぎに留萌北西沖に差し掛かったところで、正体不明の艦船を発見した直後に魚雷攻撃を受け、回避を試みたが右舷2番船倉に1発が命中した〔木俣(1993年)、235-236頁。〕。これは留萌沖に上陸地点偵察任務で派遣されたソ連潜水艦とL-19で、続けて浮上砲撃を加えてきた〔。この時点で日本海軍はすでに一切の戦闘を禁じていたが〔軍令部は、当初は停戦交渉成立までの自衛戦闘を容認していたが(昭和20年大海令第48号)、その後、支那方面艦隊を除く海軍総隊に対して8月22日午前0時を基準時として一切の戦闘行為停止を命じている(昭和20年大海令第49号・第50号)。〕、「第二新興丸」は便乗民間人の協力も得て12cm砲と25mm機銃による応戦を開始した〔。1発を相手潜水艦に命中させたとの説もある〔。「第二号新興丸」は通報により飛来した日本軍の水上偵察機1機に援護され、留萌港へ逃げ込むことに成功した。犠牲者数は死者250人・行方不明100人とも〔中山(2001年)、180頁。〕、遺体が確認できただけで298人とも言われる〔。なお、同様に小樽へ向かっていた「小笠原丸」と「泰東丸」も本艦と前後して留萌沖でソ連潜水艦の攻撃を受け、いずれも撃沈されている(三船殉難事件)。また、ソ連側のL-19も8月23日に日本海軍の宗谷海峡機雷堰に接触して沈没したと推定される〔。 「第二号新興丸」は修理され、第二復員省(旧海軍省)の下で復員輸送艦として使用された。1946年(昭和21年)8月に徴用解除となって民間船を統制する船舶運営会へ引き渡される〔佐世保地方復員部 『昭和二十一年八月十五日現在 引渡目録 新興丸』JACAR Ref.C08011329300〕。樺太・千島地区からの日本人引き揚げがソ連によって許可されると、同年12月の第1次引揚に「新興丸」も投入されて再び樺太へ赴き、12月7日に第3船として函館港へ帰還した〔函館市史編さん室(編) 「樺太・千島からの引揚げ状況 」『函館市史』通説編第4巻、函館市、2002年、98-99頁。〕。その後、船主を関西汽船に変えつつ運航されていたが、1966年(昭和41年)2月にパナマへ売却されて「ゴールデン・バッファロー」と改名した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第二号新興丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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