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第二次エチオピア戦争(だいにじエチオピアせんそう)は、1935年から1936年にかけて起きたイタリア王国とエチオピア帝国の戦争。 第一次エチオピア戦争で敗れたイタリアは、再度エチオピアの植民地化を意図して侵攻を行い、短期間の戦闘をもって全土を占領した。敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスでエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。対するイタリアは全土を占領している状況を背景に、イタリア王・アルバニア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国させた。 国際紛争の解決において大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。イタリアに対しては国際連盟規約第16条の初の発動が行われたが、実効的な経済制裁が行われなかった。イタリアは孤立からドイツおよび日本と結ぶようになり、枢軸国を形成する道をたどることになる。 ==背景 == 世界恐慌後のイタリアの状況、つまり人口増加に比しての経済の著しい低迷と高い失業率を背景として、ベニート・ムッソリーニ政権は「古代ローマ帝国の再興」「地中海を再び『我らが海』に」という民族主義的なスローガンを掲げつつ、余剰人口の吸収や資源確保のための植民地の獲得および国威発揚を目的とした膨張政策を進めたと一般に理解されている。 しかし実際にはイタリア経済は1930年代後半には安定した状態に回帰しており、例えば失業者数は70万名から50万名程度の間を推移している。この数値は取り立てて好景気ではないが、恐慌という程の状態ではない事を明確に示している。またムッソリーニはヒトラーの様な誇大妄想(メガロマニア)の傾向はなく、領土拡張の意思も現実的な対象に限られていた。イタリアはエチオピアと隣接するアデン湾沿岸部のイタリア領ソマリランドおよび紅海沿岸部のイタリア領エリトリアを領有しており、エチオピア侵攻は現実的な選択肢であった。強いて精神的な動機という点で言うならばローマ帝国云々よりも、フランスのエチオピアへの武器支援で頓挫した第一次エチオピア戦争への復讐を望む率直な国民感情である。これはムッソリーニやファシズムに限らずイタリア国民全体が共有する根深い感情であった。 イタリアを牽制できるイギリスとフランスは自国のエチオピア領内での国益(アディアベバ・仏領ソマリア間のフランス資本の鉄道、ナイル川源流のイギリスによる支配権)を保証するなら基本的に介入する気はなかった。そもそも非文明的で集権化も行われてないエチオピアへの侵略は、少し前の国際社会であれば論理的とすら受け取られうる行動だった。実際、奴隷制や封建制度が残る国を「文明化する」という事をムッソリーニは大義名分の一つに掲げたが、これはイギリスやフランスが植民地支配で多用した理屈である。国際連盟にエチオピアが加盟申請を出した際にもイギリス政府は人道的側面から反対し、民間に至っては反奴隷制運動家がエチオピアへの十字軍を主張している。こうした観点は白人社会だけなく黒人社会でも存在していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第二次エチオピア戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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