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第二次ブルガリア帝国(, )は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。 == 歴史 == === 第一次ブルガリア帝国滅亡後 === 1018年の第一次ブルガリア帝国の滅亡後、ブルガリアはビザンツ帝国(東ローマ帝国)領となった。ビザンツの支配下に置かれたブルガリアではテマ制(軍管区制)が実施され、ビザンツに従属するブルガリアの貴族と高位聖職者は特権を保証された〔金原「中世のバルカン」『バルカン史』、83,85頁〕。しかし、第一次ブルガリア帝国を滅ぼしたビザンツ皇帝バシレイオス2世が没し、彼の後継者たちの時代になるとブルガリアには圧政が敷かれるようになる〔金原「中世のバルカン」『バルカン史』、85頁〕。ブルガリア内の正教徒を管轄するオフリド総主教座は大主教座に降格されて〔井上、栗生沢『ビザンツとスラヴ』、318頁〕その地位にはギリシャ人が就くようになり、ブルガリア人の中から総主教を選ぶことができなくなった(ブルガリア正教会#オフリド大主教区も参照)〔クランプトン『ブルガリアの歴史』、34頁〕。 1040年にミカエル4世の治下で実施された財政改革によってブルガリアの農民に金銭での納税が課され、ブルガリアの農民の生活はより圧迫された〔。同じ時期にブルガリアではテマ制に代わって疑似封建的な土地制度であるプロノイア制が導入され、農民は領主の搾取にも苦しめられる〔。1040年にマケドニア地方でブルガリア皇帝サムイルの孫が指導する民衆蜂起が勃発し(ペタル・デリャンの蜂起)、指導者のデリャンはブルガリア帝国の再建を掲げた。デリャンの反乱は傭兵の助けを借りたビザンツ軍によって鎮圧されたがその後もブルガリアでは反ビザンツの蜂起が頻発し、その背景には社会不安が存在していた〔クランプトン『ブルガリアの歴史』、35頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第二次ブルガリア帝国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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