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笹原信一郎(ささはら しんいちろう、1932年(昭和7年)7月26日 - )は、日本の銀行家。元荘内銀行頭取・会長。 == 来歴・人物 == 鶴岡の名門である笹原家に生まれ、父の笹原儀三郎は、鶴岡南高校長等を歴任した〔『日本金融通信縮刷版 23版 1986年』日本金融通信社、 1987年〕。 東大法学部卒業後、富士銀行入行。同行時代は支店勤務10年、大企業向けホールセール10年、本部企画業務に10年、それぞれ従事した〔。1986年(昭和61年)には、頭取在任14年となった玉城俊一(元富士銀行取締役小舟町支店長)が代表権のない会長に退いたため、招聘され荘内銀行頭取に就任した〔『日本金融通信縮刷版 32版 1995年』日本金融通信社、1996年〕。 頭取在任時は、金融の自由化や国際化に対応することとなるが庄内地方における農業経済の不振と、山形県内陸部との経済格差拡大に伴い、経営は苦戦を強いられ普銀転換後の殖産銀行、山形しあわせ銀行の追い上げにより、預金、貸出は、両行を下回りそして山形銀行には、企業取引において大きく先行をされ預貸率は、地元4行中最低となるなど、荘銀の経営が最も苦しい時代に舵取りを担うこととなった〔日経金融新聞 1991年1月21日、4月17日〕。 笹原は、この苦境を打開するため行員には意識改革を促したほか、ピーク時1000名を超えた正行員の800人台への圧縮、経費のカット、行員賞与の引き下げ、常勤役員の削減等の苛烈なリストラを断行した。また、この際には行員の給与水準を維持出来なかったとして、プロパーの専務が辞任する事態も生じたほか地元商工関係者からは、「いざとなったら、戦前から密接な関係にある富士銀行が救ってくれるだろう」というような話が冗談めかしで語れるなど、経営に対する懸念も公然と囁かれ始めた〔「震える地銀 地方銀行の「悲劇」が始まる 「業純」最下位の荘内銀行は人件費に手をつけた。地元「公金」の独占も崩されて」 『金融ビジネス』 1992年8月号〕。しかしながら、これら一連のリストラ策から経営にも曙光が見え始めてきたため、笹原は次代のトップを古巣である富士銀に求めることとし、1994年(平成6年)には筆頭常務であった町田睿に白羽の矢が立ち副頭取として招聘され、翌年には頭取に昇格。そして笹原は代表取締役会長に勇退した。 1998年(平成10年)、大倉商事の倒産により荘銀が不良債権を抱え戦後、初めて赤字決算を計上したため相談役に退いた。また、この間には鶴岡商工会議所会頭や第五代鶴翔同窓会(鶴岡南高校同窓会)会長も務めた。 庄内出身である高山樗牛、大川周明、石原莞爾らの研究家としても著名であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「笹原信一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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