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等持院の戦い(とうじいんのたたかい)は、戦国時代の永正17年(1520年)5月5日に山城国等持院(現在の京都府京都市北区)で細川高国軍と三好之長軍との間で行われた戦い。この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。 == 開戦までの経緯 == 細川氏の家督は細川高国と細川澄元(及び家老の三好之長)が奪い合っていたが、永正8年(1511年)の船岡山合戦で敗北した澄元・之長主従は澄元の本拠地阿波へ逃れ逼塞した。これに対して高国は家督と管領職を確保して幕府の実権を握り、9年間は畿内最大の大名として勢力を誇った。 だが、永正15年(1518年)に幕府の軍事力の要だった大内義興が中国地方へ戻ったことから情勢は不穏になった。この機会を捉えた澄元・之長が高国の地盤である摂津国人衆の調略を働きかけ、翌永正19年(1519年)10月に下田中城主池田信正(久宗)が寝返り、迎え撃った高国軍を破ったからである(田中城の戦い)。11月に澄元・之長が兵庫に上陸し高国派の瓦林正頼が籠もる越水城を包囲、3ヵ月後の永正17年(1520年)2月に越水城が落とされると、動揺した高国は近江坂本へ亡命、将軍足利義稙は高国と別れて澄元支持を表明した。好機と見た澄元らは上洛を図ったが、澄元は伊丹城に留まり之長が先鋒部隊を連れて高国が去った後の京都へ進軍した。澄元が残された理由は、之長が足場を固め安全に上洛出来るようにするため先に上洛したとも、澄元の体調が思わしくなかったともされている。 3月27日に上洛を果たした之長は澄元の代理として寺社への禁制発給や高国派の追討命令などを発し、義稙から澄元の家督承認の御礼を述べるなど順調に処置を進めた。だが、高国は敗れたとはいえ健在で、近江で逆襲の機会を伺っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「等持院の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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