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筑後軌道 : ミニ英和和英辞書
筑後軌道[ちくごきどう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [のち]
  1. (n,adj-no) afterwards 2. since then 3. in the future 
軌道 : [きどう]
 【名詞】 1. (1) orbit 2. (2) railroad track 

筑後軌道 : ウィキペディア日本語版
筑後軌道[ちくごきどう]
筑後軌道(ちくごきどう)は、福岡県久留米市大分県日田市を結んでいた軌道線
== 概要 ==
久留米-日田間を鉄道で結ぶ計画は1899年(明治32年)に西洲鉄道(久留米-豆田間28哩24鎖、資本金250万円)〔明治32年4月仮免、明治35年5月失効「仮免状失効」『官報』1902年5月9日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕〔帝国鉄道要鑑. 第2版 〕の計画があったが不況により停滞していた。このため見切りをつけた発起人達は建設費の廉価な馬車鉄道に方針を変更した。1901年(明治34年)10月18日出願し、1902年(明治35年)5月10日に特許状が下付された。浮羽郡、三井郡の素封家たちにより会社を設立〔『日本全国諸会社役員録. 明治40年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。商号は吉井馬車鉄道としたが、筑後馬車鉄道に改められ〔『田主丸町誌 第3巻』590頁〕1903年(明治36年)10月吉井町 - 田主丸間が開業しその後徐々に延長し豆田まで開通したのは1916年(大正5年)のことであった。
当初は県道上に馬車軌道を敷設しただけの簡素なものだったが、後に石油発動車(焼玉エンジン動力の小型石油機関車、通称「駒吉機関車」)を使用した軽便鉄道に変わった。1911年(明治44年)の時点で同社は、この小型機関車を47両も保有するようになっており、鉄道の内燃動力化の先駆例と言えるが、わずか5 - 7馬力ほどの低出力で客車1両を牽引できるに過ぎず、騒音が激しい上に故障も多く、使いにくい車両であったという。そのため小型の蒸気機関車に置き換えられてしまい、廃止時では2両をのこすのみとなった。
その後蒸気機関車によるばい煙その他の理由により、大正時代には、起点となる久留米側の一部区間が電化され、路面電車になっている。そのため久留米における軌道が敷かれていた道の呼称も、「馬鉄通り」→「電車通り」と変化した。
1928年(昭和3年)に鉄道省によって並行して久大本線が敷設されたため、補償〔補償金額4,806,800円『日本国有鉄道百年史 』第7巻、172頁〕を受ける形で廃線となった。
なお会社は軌道線の廃止後、西久大運送(現・西久大運輸倉庫)という貨物運送会社、連絡自動車〔連絡自動車は1928年10月20日設立、1928年11月1日に筑後軌道より自動車事業を譲受した。久留米以東を営業区域としており1937年度の保有車両は118台、開業路線は180.2キロ。1938年11月久留米自動車を合併したが、1939年11月九州鉄道に合併された。『西日本鉄道百年史』74頁〕というバス会社とに分割されたが、連絡自動車は後に西日本鉄道へ統合された。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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