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筒井 徳二郎(つつい とくじろう、1881年‐1953年)は、明治から大正、昭和と活動した俳優。関西では腕利きの新派・剣劇役者、大正後期から剣劇団を率いた。進取の気に富み、翻訳劇もやれば、歌舞伎も新解釈で上演するなど、多芸多才、どんな芝居もこなした。1930年から翌年にかけての海外22ヵ国巡業で、成功を収める。 ==略年譜== 〔田中〕 *1881年‐大阪府西区(当時)新町通の芸者、辻村与里を母として生まれる。父は北区冨島町の材木商(京徳本店)、十七代目筒井徳右衛門。本名は徳治郎。 *1882年‐父、徳右衛門の籍に入籍。 *1897年‐奉公先を抜け出し、京都で芝居の一座に潜入、廃嫡となる。 *1898年または翌年、関西新派の福井茂兵衛に入門。 *1900年‐道頓堀・弁天座、佐藤歳三一座の芝居に出演。当時の芸名は千島小二郎。 *1904年‐入営し、歩兵として日露戦争に出征。負傷。戦功により勲七等瑞宝章を受ける。 *1905年‐成美団に入り、道頓堀・朝日座に出演。共演者に師匠の福井、秋月桂太郎、喜多村緑郎、小織桂一郎、山田九洲男らがいた。 *1907年‐一座を率い、1913年頃まで朝鮮、満州、台湾の各地を巡る。多くの役者と出合い、多種多様の芝居に挑戦して、修業を積む。 *1915年‐都築文男らと神戸・多聞座に出演。笹川シカと結婚。 *1916年‐笹川シカと離婚。この年から山田九洲男一派の連鎖劇に参加。 *1919年‐筒井徳二郎に改名。道頓堀・弁天座で芸術座出身の辻野良一、三好栄子らと新派劇団・新声劇(松竹専属)を旗揚げ。 *1920年‐大礒エイと結婚。新声劇は中田正造らの新国劇脱退者が加入、剣劇専門劇団に。 *1921年‐新声劇で人事主任を担当、その後、同劇団を脱退。 *1923年‐剣劇団を旗揚げ、1927年頃まで京阪神・中京・九州等で活躍。歌舞伎・講談種に新工夫した髷物や幕末維新史劇で、猛烈な立ち回りを取り入れて評判をとる。「旭旗風」(近藤勇)「元禄の快挙」「江藤新平」「河内山宗俊」「幡随院長兵衛」「荒木又右衛門」等。 *1928年‐道頓堀・弁天座公演から、山口俊男らの新潮座(松竹専属)に参加。 *1930年‐ロサンゼルスの日系人興行会社から招待を受け、翌年にかけ1年3ヵ月、欧米22ヵ国を巡業。各地で反響を呼び、「世界の剣劇王」と称えられた。 *1931年‐宝塚中劇場で帰朝記念公演。その後、国内での活動を再開するが、渡航前ほどの勢いがなくなる。 *1941年‐溝口健二監督の映画「元禄忠臣蔵」に、大野九郎兵衛役で出演。 *1945年‐3月14日、大阪大空襲で天王寺の自宅が全焼、京都・嵐山に移り住む。8月7日、広島の原爆跡地で友人を捜し出す。 *1953年‐再生不良性貧血で死亡。享年72歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「筒井徳二郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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