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大刀契(だいとけい/たいとけい)は、かつて皇位継承の際に相伝された神璽の1つ。「節刀契」とも。 三種の神器に次ぐ宝器としての位置づけにあったが、南北朝時代頃に失われた。 == 概要 == 大刀契は、かつての皇位継承に際して三種の神器とともに前天皇から新天皇に相伝された、宝器(レガリア)の1つである。「大刀」は大刀2口と節刀数口を、「契」は数種の符契(符節/割り符)類を指し、これら2物をして「大刀契」と総称された。これら一切は唐櫃に入れられ、践祚の際に授受されたほか行幸の際にも従えられたという。 「大刀契」の訓みは、『塵袋』の「タイトケイ」の記載などによって知られる。「大刀契」という呼称自体の初見は、『小右記』〔『小右記』長和5年(1016年)正月22日条。〕が伝える天長10年(833年)の淳和天皇践祚の際における大刀契相伝の記述になる。ただし、『日本後紀』〔『日本後紀』大同元年(806年)3月辛巳(17日)条。〕にある延暦25年(806年)の桓武天皇崩御に際する「璽并剣櫃奉東宮」の「剣櫃」や〔「璽」は神璽の鏡剣(八咫鏡・草薙剣)、「剣櫃」は大刀契の唐櫃を指すと解釈される (, )。〕、『続日本後紀』〔『続日本後紀』嘉祥3年(850年)3月己亥(21日)条。〕にある嘉祥3年(850年)の仁明天皇崩御に際する「齎天子神璽宝剣符節鈴印等、奉於皇太子直曹」の「符節鈴印」が大刀契を指すとする説がある。 大刀契の由来に関して、『中右記』・『禁秘抄』・『塵袋』・『永和大嘗会記』・『桃華蘂葉』では元々百済からの伝来品であると伝える。ただし、上記の通り延暦25年(806年)を文献上初見としてもそれ以前の主要文献(古事記・日本書紀・大宝令・養老令など)には記載はないため、詳細は明らかではない。この文献に記載がないという事実から、大刀契がレガリアに位置づけられたのは桓武天皇の代からとし、桓武天皇との関わりの深い百済王氏(百済系渡来氏族)一族が相伝する宝器であったとする解釈が提唱されている。そのほか、百済王のレガリアが百済滅亡とともに日本にもたらされたとする説もあるが、それほどの重要物でありながら文献に記述がないため否定的な見解が強い。 平安時代には大刀契が唐櫃に納められて温明殿(賢所)に安置されたことが見え、呼称は「伝国璽」などとも見える。大刀契の大部分は天徳4年(960年)・寛弘2年(1005年)・寛治8年(1094年)などに起こった内裏火災に際して失われたが、その相伝は鎌倉時代まで続いたことが確認される。 南北朝時代に入り、『匡遠記』によれば観応3年(1352年)の後光厳天皇践祚までに大刀契は失われ、その継承は廃絶したという。その後の室町時代から江戸時代の公卿の日記にも、大刀契の存在は記されなくなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大刀契」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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