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篠原 三代平(しのはら みよへい、1919年10月26日 - 2012年12月7日)は日本の経済学者。一橋大学名誉教授。文化勲章受章、日本学士院賞受賞。 == 人物 == 富山県高岡市末広町に雑貨商の家に長男として生まれた。父は雑貨店篠原商店を経営し、母は明治の女性としては珍しく女学校を銀時計を受領し卒業し、篠原商店の経営を助けた。 高商卒業後に入学した高岡高等商業学校では、大熊信行の講義を、大熊の著書『マルクスのロビンソン物語』や『経済本質論』を読み返しながら、熱心に聴講し、大きな影響を受けた。大熊との交流は篠原が学者となったのちも続き、夏休みには、篠原及び大熊及び、高岡高商と一橋の先輩である板垣與一の3人で軽井沢に行くのが恒例となっていた。 高商卒業後は、東京商科大学(現一橋大学)で中山伊知郎門下に入り、経済学を学ぶが、1941年から学徒出陣、不整脈のため幹部候補生試験には不合格となり、主計伍長として富山、鹿児島で従軍。 1942年9月に大学を繰り上げ卒業した。卒業後の進路としては、高等商業学校の教師を志し、卒業2か月前に師事していた中山伊知郎に相談したところ、「遅すぎる」と言われ、結局、東京商科大学東亜経済研究所(現経済研究所)無給嘱託となることがいったん決まり、面接を受けた。ところが「実証研究には向かない」と言われ、無給嘱託の約束も取り消された。そこで、東京商科大学に特別研究生として残り、3年後に論文「雇用理論と資本理論」を完成させ、中山及び有沢広巳、森田優三が始めた大蔵省の財政経済実勢研究室の研究員に就任。 大蔵省の研究員を4年間務めたのち、一橋大学経済研究所の助教授に就任。そこで大川一司の影響を受け、理論研究から、実証研究に重点を移す〔「私の履歴書」日本経済新聞2009年〕。 日本経済学会会長、景気循環学会会長、財団法人アジア・クラブ理事長、統計研究会会長、アジア経済研究所会長、財団法人全国統計協会連合会大内賞委員会委員長、経済企画庁経済研究所所長、経済企画庁参与、日本銀行参与等を歴任。 経済企画庁参与、経済企画庁景気動向指数研究会座長、経済企画庁景気基準日付検討委員会委員長、日本道路公団経営改善委員会委員長、1992年物価安定政策会議議長、総理府統計審議会会長、対外経済問題諮問委員会委員等を歴任。 1988年日本学士院賞受賞。1989年(平成元年)勲二等瑞宝章。1984年紫綬褒章、1998年文化功労者、2006年(平成18年)文化勲章。一橋大学名誉教授、東京国際大学名誉教授。 2012年(平成24年)12月7日、東京都内の病院で死去〔篠原三代平氏が死去 一橋大名誉教授、景気循環論の大家 日本経済新聞 2012年(平成24年)12月8日閲覧〕。。没後、従三位。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「篠原三代平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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