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篠原踊(しのはらおどり)とは奈良県五條市の大塔町最東端、十津川支流の舟ノ川流域に点在する集落の中でも最奥に位置する篠原地区に伝わる踊りである〔田中2009年 pp.26-27〕〔奈良新聞社1996年 pp.24-25〕。記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)〔〔篠原踊 (文化遺産データベース)〕〔奈良県の地域伝統芸能 (地域伝統芸能活用センター)〕、奈良県指定無形民俗文化財〔〔篠原踊 (五條市サイト)〕。「篠原踊」は古い時代には「川瀬踊り」ともいった。江戸時代末期の医家で博物学者の畔田伴存(翠山)は「躍有り。川瀬躍と云ふ」と記録しており、篠原を川瀬と呼び特有の踊りがあることを伝えている〔篠原踊調査報告書作成委員会 2015年〕。 。 == 歴史 == 毎年1月25日、大塔町篠原の天満神社の初天神祭で神事が営まれた後に境内で「式三番」といわれる「梅の古木踊り」「宝踊り」「世の中踊り」の3曲が地元の住人らにより奉納される。この踊りはオオカミ退治を神に祈願しその願果たしの御礼として始められたと伝わる〔〔〔高橋・鹿谷1991年 pp.125-126〕。1955年(昭和30年)に奈良県の無形民俗文化財に指定され、住民らが保存会を組織して素朴で古雅な踊りを伝えている〔。 大塔町篠原地区や隣接する大塔町惣谷地区など一帯はかつては「坪杓子」を作る木地師たちの里として栄えていた〔吉野大塔の坪杓子製作技術 (文化遺産オンライン)〕。篠原地区も今では深刻な過疎化で数十人が暮らすだけの静かな山村だが戦前までは400人近い住人が住んでいたといい、この祭りも前後に3日間続く地区で最も盛大な祭りであった〔。かつては氏神様へ3曲を奉納したあとは地区の萬福寺で地芝居などを挟みながら数多くの踊りが披露され村人の大きな娯楽となっていた〔〔。祭りの期間には各家に泊り込む人もたくさんいて集落に人があふれかえっていたという〔。戦前の1939、40年(昭和14、15年)頃まではこの形式が受け継がれていたが途絶え〔〔、戦後の1952年(昭和27年)頃に研究者の来訪で復活したが、それも2、3年で途絶えてしまったといい〔、今では1月25日に集落からさらに高所の天満神社の境内で3曲を奉納するのみになっている〔。 過疎化による後継者不足は深刻で2013年(平成25年)には踊り手がわずか3名となり、2014年(平成26年)の祭礼では踊りの奉納が見送られた。篠原おどり保存会では広く地区外からも参加者を募り同年10月からは地区外の市立牧野公民館で稽古を重ね、2015年(平成27年)の奉納には16名の踊り手が参加した。同年の踊り手のうち篠原地区の住人は男性1名のみ、出身者も女性6名で、地区外からの参加者により伝統が守られた〔篠原踊 2年ぶり 踊り手公募で伝統守る 、毎日新聞、2015年1月26日。〕。 篠原の隣の集落である惣谷でも同じように祭りでは古くから踊りと地芝居が伝えられてきたが、気風の違いからか篠原では「篠原踊」として踊りが伝承されているのに対し、惣谷では「惣谷狂言」と呼ばれる地狂言が現在に残り奈良県指定無形民俗文化財となっている〔高橋・鹿谷1991年 p.126〕。篠原踊と同じ1月25日に惣谷地区の天神社では惣谷狂言が奉納されるため、近年は開始時間を午前と午後に振り分けるのが慣例となっており〔、見物客は両方の行事を拝観することができる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「篠原踊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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