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篠山 紀信(しのやま きしん、本名の読み・みちのぶ、1940年12月3日 - )は、東京市淀橋区柏木(現在の東京都新宿区北新宿)出身の写真家。 == 経歴 == 東京都新宿区にある真言宗豊山派円照寺の住職篠山明信の次男。新宿区立淀橋第四小学校を経て、私立芝中学校・高等学校に入学。 特に写真が好きではなかったが、一般大学受験に失敗したため、衝動的に日本大学藝術学部写真学科に出願し入学〔妹尾河童『河童が覗いた仕事師12人』p.38-39(新潮文庫)〕。日大での同期に写真家沢渡朔がいる。 写真学科に入った以上は写真家になろうと決心し、日大と併行して東京綜合写真専門学校にも通学。在学中より新進写真家として頭角を現す。東京綜合写真専門学校を2年で卒業した後、日大在学中の1961年にライトパブリシテイに就職、この面接にあたりハッタリをかますため当時非常に高価だったハッセルブラッド500Cとリンホフを両肩に提げて持参したという逸話がある〔『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.103。〕。APA賞等数々の賞を受賞し華々しいデビューを飾る。初期の作品には『Death Valley』『Twins』『Nude』など傑作が多い。ジョン・レノンの生前のラストアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット撮影は篠山の作品である。 その作品数の多さ、ジャンルの多様さはヌードから歌舞伎まで他の写真家を遥かに凌ぐ。1973年、デビューからのキャロルを激写し、キャロル売り出しに貢献〔『Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 Vol.1』ウルトラ・ヴァイヴ、2005年、p.88。〕〔三橋一夫『フォークって何だ』日本放送出版協会、1979年、p.189。〕。同年『女形・玉三郎展』で芸術選奨新人賞受賞。1975年に雑誌『GORO』で歌手の山口百恵特集で使い始めた「激写」は流行語になり〔加藤迪男編『20世紀のことば年表』東京堂出版、2001年、p.194。〕、その後の松田聖子ら芸能人や素人をモデルにした一連の激写シリーズで知られるようになる。1978年に写真集『大激写 135人の女ともだち』がベストセラーになったことを契機として、1980年には篠山をメインにした写真雑誌『写楽』が創刊された〔斎藤精一「両グループの出版物徹底研究」『音羽vs一ツ橋 巨大出版社の研究』創出版、1983年、p.166。〕。 赤塚不二夫の『天才バカボン』では篠山をモデルにしたカメラ小僧「篠山紀信君」として登場し、つむじ風を巻き起こしながらどこにでも現れて、決定的瞬間を撮る人物とされている。 1978年から1997年にかけては『週刊朝日』の表紙写真を撮影。1980年に始まった『週刊朝日』表紙の女子大生シリーズからは、何人もの女優や女子アナウンサーを輩出している〔「あなたはあのころ、誰に恋してましたか 『紀信の表紙写真館』ベストショット85」『週刊朝日』2007年2月16日号。〕。その他にも『週刊現代』の表紙写真や、月刊テレビ情報誌『B.L.T.』の表紙、及び巻頭グラビアを毎号担当。『B.L.T.』では被写体のヌードはないが、寝そべって、胸の谷間を見せるポーズなど他の雑誌よりは露出度が高いグラビアを撮影している。 デジタルカメラを用いて撮影した場合は、「シノヤマキシン」(2000年頃)「しのやまきしん」「digi_KISHIN」(2003年頃)と言う別名義を使用する時もある。時代の節目で、いつの時代も最良の時間と場所でカメラを構えている。 女性を被写体とした多数のヌード写真を撮影している。1969年にカメラマンの沢渡朔、林宏樹らと全日本恥毛露出連盟ことゼンチロレンを結成して会長に就任。〔『平凡パンチ』1969年5月26日号(塩田丸男『死語読本』白水社、1994年、p.170。)〕1991年には女優の樋口可南子をモデルにした写真集「Water Fruit 不測の事態」で事実上、陰毛を解禁させ、続けて同年に出版した当時トップアイドルだった宮沢りえのヌード写真集「Santa Fe」は新聞に出した全面広告が評判を呼び、ヘアヌード(篠山自身はこの単語を「大嫌いだ」と公言している)ブームを巻き起こした。「Santa Fe」はその年のベストセラー7位、「Water Fruit 不測の事態」は10位の記録を残している〔出版ニュース社編『出版データブック1945~1996』出版ニュース社、1997年、p.97。〕。 撮影したヌード写真については、女性の事務所サイドから写真の使用を止められた場合ネガを持ち帰り、自宅で保管する。後にその女性が、芸能界でいわゆる、「落ち目」になったときに、秘蔵ヌードが見つかったことにして『今のヌード』と『昔のネガ』を持ち出し、その二つを一冊の写真集にして発売することがある(例:水沢アキ、杉田かおる)。 篠山の企画はたいていの場合、スマートであるとともに、ヒットし(一般受けし)、絶大な人気を誇るため(ただし、写真作品1枚1枚の良し悪しによるというよりは、その企画(発想)自体が世の中に受けているという面は否定できない)、同業者や熱心な写真愛好家の中には反感を抱く者もいるようである。 傍目には話題性のみを追求しているともとれるその作品制作の姿勢(もっとも、篠山が実際にそういう意図で制作しているわけではない)は、写真評論家や写真批評家による評価を気にしないようでもあり、そのことから、日本写真史における篠山の位置づけは固定していないようである。 常に「今」を感じ、時代とともに表現が変わり続けるという自己のスタイルに対する軽妙さ(時代の複写)の写真家である。定義づけが困難なのは、写真における大衆性がしばしば批判的に捉えられる日本の慣習によるものである。商業的なイメージのある反面、自身が落語家であるということから6代目三遊亭圓生を長年撮り続けた。また歌舞伎にも手を広げ、5代目坂東玉三郎を30年以上撮り続け、文化的側面で非常に貴重な写真も数多く残している。近年は彼のみならず、17代目中村勘三郎や歌舞伎界の花形を撮り続けている。 なお、自決直前の三島由紀夫を被写体とした写真集(『男の死』)は、当初公表される予定であったが、1970年の三島の自決事件の影響に加え、同じく被写体となっていた横尾忠則の反対により、未だ正式な刊行には至っていない。 また、日芸在学中に知り合った、アート・ディレクターの鶴本正三とは多くの仕事をともにし、1972年の写真集「オレレ・オララ」、1975年から「GORO」ではじまった「激写」、1977年の写真集「カメラ小僧の世界旅行」等のアート・ディレクションは鶴本が担当している。 私生活では、モデルと離婚後、アイドル歌手の南沙織と再婚。俳優の篠山輝信は次男。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「篠山紀信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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