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篠山 資家(ささやま すけいえ、生年不詳 - 慶長5年8月1日(1600年9月8日))は、安土桃山時代の武将。甲賀五十三家に数えられる大原氏の庶流。大原蔵人頭景元(景助)の子(父の代に笹山姓に改姓したが、資家の代にさらに篠山姓に改姓)。別名は景春。通称は理兵衛。 はじめ織田信長に仕え、次いで羽柴秀吉に属すが、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで織田信雄と誼を通じた嫌疑で父とともに浪人となり、関地蔵周辺に隠棲した。慶長元年(1596年)、徳川家康の上洛の折に徳川氏に召し出され米千俵を給された。慶長4年伊勢国代官職となる。 慶長5年(1600年)6月18日、徳川家康が会津征伐に赴く途上大津城に入ったところ、五奉行の長束正家が挨拶に来て、翌朝、朝餉に招待したいと申し出てて家康も馳走になると返答した。これを家康の暗殺を企む正家の陰謀を知った資家は、家康に通報し夜中のうちに道案内をして石部宿より間道を抜けて土山宿に到着し事なきを得て、褒美として家康より腰物を拝領した。その後の伏見城の戦いで嫡男・彦十郎景尚とともに城を護るが甲賀衆31名とともに戦死した。墓所は鳥居野の多聞寺。法名は宗月。 なお、次男資盛(資友、理兵衛、甚吉)は家康に召出され、父の伊勢国代官職を継ぎ、大坂の陣にも従軍。寛永2年に父祖の地鳥居野480石を安堵され、子孫は旗本して存続した。また、資尚の子景季も戦後200石を賜り、子孫は旗本として存続し、資家から数えて9代の十兵衛景義は佐渡奉行となり、10代の景徳も佐渡奉行になると佐渡の一揆を鎮めて、大目付に栄転し従五位下に叙せられた。 ==参考文献== *日本人名大辞典(講談社) *改正三河後風土記 *寛政重修諸家譜 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「篠山資家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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