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== 概要 == 前の阿部内閣が総辞職した後、新内閣の首相には当初陸軍大臣畑俊六が噂されていた。しかし、昭和天皇が当時の日独伊三国同盟締結を求める風潮を憂慮したために、海軍良識派である海軍大将の米内光政に組閣の大命が降下した。米内は組閣と同時に自ら現役を退き予備役となるが、親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、近衛文麿らによる新体制運動にも冷淡な姿勢を貫いたこと等により陸軍や親軍的な世論から不評を買う。米内内閣成立後に民政党の斎藤隆夫議員が行ったいわゆる「反軍演説」も陸軍の反発を招いた。 組閣から半年後の1940年(昭和15年)6月、フランスがドイツ(ナチス・ドイツ)に降伏すると、独伊への接近を企図し、近衛文麿を中心とする新体制に期待して倒閣の機会を窺っていた陸軍は、その目的を達すべく、畑俊六陸相を単独辞職させる〔敗戦後の極東国際軍事裁判においてA級戦犯被告となった畑はこのことを厳しく問われることになる。〕〔畑は当時の参謀総長だった閑院宮載仁親王から陸相を辞任するように迫られ、皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を断ることができなかった。閑院宮の顔を立てたいと考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていたが、なぜか米内は辞表を受理した。〕。米内は後任の陸相を求めたが、陸軍は三長官会議にて後任を推挙しなかったため、軍部大臣現役武官制により、総辞職に追い込まれた。 昭和天皇は米内内閣総辞職について「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争(対米戦争)にはならなかったろうに」と、後年まで悔いていたという〔秦郁彦「昭和史の軍人たち」(文藝春秋1982年)P319〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「米内内閣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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