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米原 綱寛(よねばら つなひろ、生年不詳 - 慶長18年(1613年))は、戦国時代の武将。尼子氏家臣。尼子氏家中での立場は御手廻衆。禄は備中国17,500石。米原綱広の子。尼子十旗のひとつ、高瀬城城主。別名は平内兵衛。近江では「よねばら」でなく「まいばら」と読む。子には米原綱俊。 米原氏は、戦国大名佐々木六角氏の流れを汲み、14代当主・六角定頼の甥である六角治綱が養子となり近江国米原郷を領し、米原氏を称したのが始まりとされている。また、三善湯原氏の一族から派生したと伝わる。 == 経歴 == 米原氏居城である高瀬城は、出雲国原手郡の平野部を領し、東には大西氏居城大西城、揖斐伊川上流の三刀屋城・三沢城、揖斐伊川下流にある鳶ヶ巣城・平田手崎城等の城と共に、尼子十旗として名を連ねる強固な城であった。綱寛は幼くして眉目秀麗であり、主君・尼子晴久に寵愛されており、幼少から晴久の側近として重用されていたという。天文9年(1540年)には安芸国の毛利氏攻め(吉田郡山城の戦い)に参加している。 ところが、永禄3年(1560年)に晴久が急死し、これにより勢力を衰退させた尼子氏は尼子義久の時には逆に毛利氏の侵攻を受けるようになる。永禄5年(1562年)、高瀬城城主となった綱寛は、出雲侵攻を開始した毛利氏へと下っている。永禄8年(1565年)の月山富田城攻め(月山富田城の戦い)には、小早川隆景に属している。綱寛は使者として立原久綱と交渉している。 永禄9年(1569年)、尼子新宮党出身の尼子勝久を擁する尼子再興軍が挙兵。北九州を巡って毛利氏と対決していた豊後国の大友宗麟は綱寛に「勝久を援助せよ」と密使を使わし、毛利元就は再興軍討伐の為に綱寛を出雲へ帰国させている。これに対し綱寛は居城である高瀬城へと籠城し再興軍に参加した。 元亀元年(1570年)、布部山の戦いに敗走。綱寛は高瀬城にて籠城したまま抵抗した。翌年、吉川元春に対し開城、新山城へと逃亡した。その後、綱寛は剃髪して可春斎と号して隠居している。 子の綱俊は津和野藩の藩士となった。また、他の子孫が名字を前原に変えて長州藩に仕えた。この系統から前原一誠が出る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「米原綱寛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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