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米子電車軌道(よなごでんしゃきどう)は、かつて鳥取県米子市に存在した路面電車路線である。 == 概要 == 皆生温泉の開発会社皆生温泉土地〔『日本全国諸会社役員録. 第32回』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕(現、皆生温泉観光)は1921年11月に優秀な温泉源を掘り当て、これにより1922年から温泉旅館が次々と開業した。米子への連絡道はまだ拡幅整備中であったが、同年7月より米子駅前から温泉地まで一日15往復のバスの運行をはじめた。しかしこのフォード製12人乗り幌型自動車はよく故障し、1日1便という日もあり会社を悩ませた。はやくも翌年3月には赤字により車両全部を山陰タクシーに売却してしまった。 1923年皆生温泉土地社長の有本松太郎の政友会同志である遠藤光徳が県会議員に当選した。遠藤は会社の取締役に就任し、米子-皆生間の新道(皆生通り)を県費で建設することを実現させた。これに便乗して新たに企画されたのが電気軌道であり、7月には軌道敷設の特許が下付された、この設立した子会社が米子電車軌道〔当初は米子電気軌道であったが12月に商号変更した〕である。 1925年に初の路線を開業させ、翌年に米子駅前までの乗り入れを果たし、さらに1928年には市街地の買収が難航していたため迂回していた加茂町 - 角盤町間の短絡線も開通した。 しかし皆生温泉の知名度が当時低かったことや、昭和恐慌の影響で湯治客が減るなど、赤字経営が続いた〔1928年に大旅館の大山館、富士見館が休業になり、また皆生温泉の人口が大正15年末の700人だったのが昭和6年末に570人に芸妓酌婦の数が60人から30人に減少した。〕。親会社の皆生温泉土地も1931年には減資の憂き目に遭い〔1926年に増資した3万円のうち未払いの22,500円を中止したもの(資本金207,500円)〕、1934年には経営陣が変わるほどであった。 その後、陸軍の命令で陸軍米子飛行場(現・陸上自衛隊米子駐屯地)が建設されることになり、そのための資材を運搬する道路と軌道が交差し貨物輸送の障害になるという理由〔米子飛行場は1938年6月に落成式を挙行したが当初は軍の飛行場ではなく逓信省所轄の民間用公共飛行場であった。当時中国地方唯一の飛行場であったので陸軍が隣接地を1937年11月に買収し、工事を始めていた。『米子自治史』835 - 838頁〕で、1938年に軌道は撤去された。車両は小倉電気軌道(のちの西鉄北方線)に譲渡され、13 - 17となった。 なお会社は米子交通〔『日本全國銀行會社録. 第48回』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕というバス会社に改められ〔乗合自動車業は1929年7月2日より米子 - 境間の営業を開始していた。『米子自治史』839頁〕、1949年には日ノ丸自動車に合併した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「米子電車軌道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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