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米 振標(まい しんひょう)は、清末民初の軍人。清末は毅軍に属する。民国時代にも毅軍総司令として北京政府で各派に属した。字は錦堂。 == 事跡 == 最初は淮軍に加入する。その後、宋慶率いる毅軍に転じて、翼長まで昇進した。 1913年(民国2年)11月、熱河省の林西鎮守使に就任し、あわせて熱河軍務幇弁を兼ねた。1915年(民国4年)12月、袁世凱が皇帝に即位すると、米振標は一等子爵に封じられている。袁世凱死後は安徽派にまず属したが、1920年(民国9年)の安直戦争後には直隷派に転じた。 1921年(民国10年)、熱河都統姜桂題の下で同省副都統をつとめ、あわせて毅軍総司令に任命された。1922年(民国11年)5月、熱河軍務幇弁として、都統王懐慶の職務を代行する。1924年(民国13年)7月、王の後任として署理熱河都統に任命される。9月の第2次奉直戦争では討逆軍第2軍副司令となった。しかし、奉天派と馮玉祥の前に直隷派が敗北したため、同年12月、米は都統を罷免されている。 その後、米振標は馮玉祥率いる国民軍に転じている。1925年(民国14年)には河南軍務幇弁兼毅軍総司令に任命された。国民軍が北方各派に包囲攻撃されて一時撤退すると、米は張作霖らの安国軍に転じ、安国軍第18軍軍長兼毅軍総司令に任命された。しかし、国民革命軍の北伐を受けて軍を殲滅され、米は下野した。これにより、清末以来の毅軍は完全に崩壊、消滅したことになる。 1928年(民国17年)、死去。享年69。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「米振標」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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