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米英戦争のカナダ戦線 : ミニ英和和英辞書
米英戦争のカナダ戦線[べいえいせんそうのかなだせんせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こめ]
 【名詞】 1. uncooked rice 
米英 : [べいえい]
 【名詞】 1. America and England 2. American-English
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 
戦線 : [せんせん]
 【名詞】 1. (war) front 

米英戦争のカナダ戦線 : ウィキペディア日本語版
米英戦争のカナダ戦線[べいえいせんそうのかなだせんせん]
米英戦争のカナダ戦線(べいえいせんそうのカナダせんせん)は、アメリカ合衆国イギリスが戦った米英戦争1812年 - 1815年)の主に五大湖地方とカナダを戦場とした一連の戦闘である。アメリカ合衆国は、カナダ征服が容易なものと考えて、カナダ駐在のイギリス軍の何倍もの戦力を投入したが、イギリス軍が巧みに抗戦し一進一退の攻防となった。ナポレオン戦争の帰趨が見えた1814年からは、イギリス軍が部隊を増強し攻勢に出たが、大きな成果には結びつかなかった。結局両軍とも目立った成果の無いまま終戦となった。
== アッパー・カナダとローワー・カナダの侵略、1812年 ==

アメリカ合衆国の指導者はカナダを簡単に奪えると見ていた。前大統領トーマス・ジェファーソンは、カナダの征服について楽観的に「行軍するだけのこと」と言っていた。多くのアメリカ人がアッパーカナダに移住しており、イギリスからもアメリカからも彼らはアメリカの側に付くと思われていた。しかし、そうならなかった。もう少し人口の多いローワー・カナダでは、イギリス帝国に強い忠誠心のある特権階級のイギリス人から、またアメリカがカナダを征服すると、プロテスタントや英国化、民主共和制および商業的資本主義の古い伝統を壊されることを恐れるフランス人特権階級から、イギリスが支持されていた。フランス人住民は、アメリカ人移民が入ってくることにより、良い土地が減っていくことによる損失を恐れていた〔Peter Burroughs, "Prevost, Sir George" in ''Dictionary of Canadian Biography Online'' online 〕。
1812年から1813年にかけての経験豊富なイギリス軍の戦い振りは、経験の足りないアメリカ軍指揮官を凌いだ。
地形的な事から、作戦は主に西部から始まった。エリー湖の周辺から、エリー湖とオンタリオ湖の間のナイアガラ川近くから、およびセントローレンス川地域とシャンプレイン湖から、これが1812年にアメリカ軍が始めた攻撃の3つの焦点であった。
モントリオールケベックを占領することによりセントローレンス川を切り取ることが北アメリカにおけるイギリスの死命を制するはずではあったが、アメリカ合衆国は西部の辺境から作戦を始めた。これは、先住民族に武器を売って開拓者を襲わせていたイギリスに対する戦争を支持する人々が西部に多かったという事情にもよっていた。
イギリス軍は、ヒューロン湖のセントジョセフ・アイランドの分遣隊が、アメリカ軍よりも早く宣戦布告を知って、1812年7月17日にアメリカの重要な交易基地であったミシガン州マッキナック・アイランドを攻略して、緒戦の重要な戦果を上げた。少数の部隊で島に上陸しマッキナック砦を見下ろすように大砲を据えた。アメリカ軍はびっくりして即座に降伏した。この緒戦の勝利でインディアンの士気も鼓舞でき、多数のインディアンがアマーストバーグのイギリス軍の支援に動いた。
アメリカ軍の准将ウィリアム・ハルが主に民兵からなる部隊を率いて、7月12日デトロイトからカナダ領に入った。ハルは、一度カナダの地に入ると、「名誉を。戦争の危難がお前達の前にある」と言って、すべてのイギリス兵に降伏するよう宣言を発した。ハルはインディアンと共に戦ったイギリス軍捕虜は殺すと脅した。この宣言は却ってアメリカの攻撃に対する抵抗を強固にすることになった。
ハルは脅しを掛けてはみたものの、マッキナックのイギリス軍の勝利の知らせに接し、ブラウンズタウンの戦いとモンガゴンの戦いで補給線の確保が難しくなったと判断し、2,500名の部隊と共にデトロイト砦に引き返した。
イギリス軍のアイザック・ブロック少将は1,200名の部隊を連れてデトロイト砦攻略に向かった。ブロックは偽の文書を用意し、その文書がアメリカ軍の手に落ちるようにした。その文書にはデトロイト砦の奪取に5,000名のインディアン戦士がおればよいと書いてあった。ハルはインディアンとその拷問や頭皮剥ぎの脅威に怯えた。ハルはイギリス軍が実際以上に兵力があるものと思いこみ、8月16日に戦闘もしないでデトロイト砦を明け渡して降伏した。
ブロックは、アメリカ軍の将軍スティーブン・ヴァン・レンセリアが2回目の侵略を試みているエリー湖の東端に移動した。この時、アメリカが抗議していたイギリスの枢密院令(アメリカの貿易を規制する布告)を放棄することで、プレボストが停戦を実現できるかもしれないと期待して採用した一時的休戦により、ブロックはアメリカの領土を侵すことはなかった。この休戦期間が終わると、アメリカ軍は10月13日にナイアガラ川を越えた攻撃を行ったが、クィーンストン・ハイツの戦いで手痛い敗北を喫した。この戦いの間にブロックが戦死した。アメリカ軍の職業意識は戦争が進むにつれて改善されていったが、イギリス軍の指揮はブロックの死によって大きく影響された。
1812年のアメリカ軍最後の試みは、ヘンリー・ディアボーン将軍がシャンプレイン湖から北へ侵攻するというものだったが、アメリカの民兵はアメリカ領から出ていくことを拒んだので失敗した。アメリカの民兵とは対照的に、カナダの民兵はよく働いた。フランス系カナダ人は合衆国内で紛争の種になっていた反カトリックの立場をとり、アメリカ独立戦争でイギリスの為に戦った王党派はアメリカの侵略に強く抵抗した。しかし、アッパー・カナダの人口の大半は近年入植したアメリカ人であり、イギリスに対する目に見える忠誠は無かった。アメリカ軍の侵略に同調する者もいたが〔 See "Mallory, Behajah" in ''Dictionary of Canadian Biography Online'' online and "WILLCOCKS (Wilcox), JOSEPH" in ibid online 〕、アメリカ軍はイギリスに対する忠誠心の強い者達から激しい反攻を受けることになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「米英戦争のカナダ戦線」の詳細全文を読む




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