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米英戦争の大西洋戦線 : ミニ英和和英辞書
米英戦争の大西洋戦線[べいえいせんそうのたいせいようせんせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こめ]
 【名詞】 1. uncooked rice 
米英 : [べいえい]
 【名詞】 1. America and England 2. American-English
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 
大西洋 : [たいせいよう]
 【名詞】 1. Atlantic Ocean 
西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
西洋 : [せいよう]
 【名詞】 1. the west 2. Western countries 
戦線 : [せんせん]
 【名詞】 1. (war) front 

米英戦争の大西洋戦線 : ウィキペディア日本語版
米英戦争の大西洋戦線[べいえいせんそうのたいせいようせんせん]
米英戦争の大西洋戦線(べいえいせんそうのたいせいようせんせん)は、アメリカ合衆国イギリスが戦った米英戦争1812年 - 1815年)の中でアメリカの東海岸と大西洋を戦場とした一連の戦闘である。海軍力では戦力的に劣っていたアメリカ海軍ではあったが、開戦当初は優位に立っていた。ヨーロッパから増援を派遣したイギリス軍によって次第に劣勢となり、首都のワシントンD.C.ボルティモアが攻撃されたが、最終的にイギリス軍に占領された地域はわずかなまま終戦を迎えた。
イギリスは世界でも最高の海軍力を誇ってきており、1805年トラファルガーの海戦フランススペインの連合艦隊に対する歴史的勝利によってその力が確かめられていた。1812年時点で、イギリス海軍はアメリカ付近の海域に85隻の艦船を派遣していた。これに対し、アメリカ海軍はまだ20年程の歴史しか無く、フリゲートを主力とした艦隊で就役艦も22隻に過ぎなかったが、アメリカのフリゲートの多くはイギリスのものよりも大型で強力だった。当時のイギリスのフリゲートは18ポンド砲を主体に38門を装備していたのに対し、アメリカの「コンスティチューション」、「プレジデント」、「ユナイテッド・ステーツ」の砲は44門(56門まで増強可能)であり、主体も24ポンド砲であった。これらに対抗してイギリスでも60門装備のフリゲート「リアンダー」や「ニューカースル」の建造を進めていた。
イギリスの戦略は、ハリファックスカナダを行き来する商船の保護と、アメリカの貿易を制限するために主要なアメリカの港を封鎖することだった。アメリカは海軍力で劣っていたので、賞金目当ての捕獲であるとか、条件の良い時のみにイギリス海軍艦船を襲うなど、奇襲を掛けては逃げる戦術を採って混乱を誘った。
== アメリカ海軍の活躍、1812年 ==

アメリカ海軍の戦術は初期に成功を収めた。宣戦布告の数日後には2つの小戦隊が出撃した。1つはジョン・ロジャース代将指揮のフリゲート「プレジデント」とスループ「ホーネット」の戦隊、もう1つはスティーブン・ディケーター艦長指揮のフリゲート「ユナイテッド・ステーツ」と「コングレス」及びブリッグ「アーガス」の戦隊であった。
さらに、アイザック・ハル艦長指揮のフリゲート「コンスティチューション」が7月12日チェサピーク湾を出港した。7月17日、イギリスの戦隊が追跡を開始したが、「コンスティチューション」は2日後にそれを振り切った。「コンスティチューション」はボストンに立ち寄って水を補給した後、8月19日にイギリスのフリゲート「ゲリエール」と交戦に及んだ。35分間の戦いの後、「ゲリエール」はマストを打ち倒され捕獲された上で焼却された。ハルは意義有る勝利の知らせを持ってボストンに帰還した(USSコンスティチューション対HMSゲリエール)。
10月25日、ディケーター艦長指揮のフリゲート「ユナイテッド・ステーツ」は、イギリスのフリゲート「マセドニアン」を捕獲し、港に曳航した。この月の終わり、「コンスティチューション」はウィリアム・ベインブリッジ艦長の指揮で南に向かい、12月29日ブラジルバイア州沖でイギリスのフリゲート「ジャバ」と遭遇した。3時間に及ぶ交戦の後、「ジャバ」は降伏し、航行不能と判断された後に焼却処分となった。激戦にもかかわらず「コンスティチューション」のダメージはわずかで、「オールド・アイアンサイズ("Old Ironsides")」という別名を得た。
1813年1月、デイビッド・ポーター艦長指揮のアメリカのフリゲート「エセックス」はイギリスの海運を妨害する目的で太平洋に乗り入れた。イギリスの捕鯨船は他国船拿捕免許状を所持しており、アメリカの捕鯨船を拿捕して捕鯨産業を壊滅に追い込んでいた。「エセックス」はこれに挑戦し、イギリスに莫大な被害を与えたが、1814年3月28日チリのバルパライソ沖で、イギリスのフリゲート「フィービ」とスループ「チェラブ」によって捕獲された。
この「エセックス」の場合を除いて、アメリカ海軍は艦船の大きさや砲の数の多さという利点を持っていた。とはいえ、アメリカのスループやブリッグも同じような強さのイギリス艦船に勝利を収めることがあった。アメリカ艦には経験を積み良く訓練された志願の乗組員がいたのに対し、行動範囲が広がりきったイギリス海軍の最強部隊は他の地域で作戦中であり、また北アメリカ海域の部隊は恒常的な任務に張り付けられて訓練や演習を行うことができなかった。
3隻のフリゲートの捕獲に衝撃を受けたイギリス海軍は北アメリカ海域の増強に動いた。多くの艦がアメリカ沿岸に派遣され、海上封鎖を強めた。1813年6月1日ボストン港沖でジェイムズ・ローレンス艦長指揮のアメリカ海軍のフリゲート「チェサピーク」が、イギリスのサー・フィリップ・ブローク艦長指揮のフリゲート「シャノン」に捕獲された。ローレンスは瀕死の重傷を負ったが、「船を諦めるな("''Don't give up the ship!''","''Hold on men!''")」という有名な言葉を叫んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「米英戦争の大西洋戦線」の詳細全文を読む




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