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粟 裕(ぞく ゆう)は、中華人民共和国の軍人。中国人民解放軍の大将。トン族。 遊撃戦(ゲリラ戦)の理論家として知られ、国共内戦時の主要戦役を指揮した。戦後は、総参謀長等を歴任。1958年に失脚し、一時閑職に回されたが、文化大革命中に国務院の閣僚を務めた。死後10年たった1994年12月、 36年ぶりに、党中央軍事委員会によって名誉回復がなされた。 == 生涯 == === 若き日 === 1924年春、常徳に移り、湖南省立第二師範学校に入学し、中国共産党が指導する学生運動に参加した。1926年11月、中国共産主義青年団に加入。1927年5月、国民革命軍第24師(師長葉挺)に入隊し、教導班長に任命された。同年6月、中国共産党に入党。8月、南昌起義に参加し、警衛隊班長、南昌起義革命委員会の委員となった。広東潮(安)汕(頭)地区での失敗後、朱徳、陳毅に従い閩粤贛湘辺を転戦し、10月、連(中隊)政治指導員に任命された。 1928年、湘南起義参加後、井岡山に移る。中国工農紅軍の連長、営(大隊)長、団(連隊)長、師長、紅4軍参謀長、紅7軍団参謀長等を歴任する。井岡山闘争に参加し、贛南、閩西、中央ソビエト区第1次~第5次「囲剿」を転戦した。 1934年7月、紅軍北上抗日先遣隊参謀長に任命され、閩浙赣皖辺を転戦した。1935年1月、劉英と共に約500人を率いて封鎖線を突破して浙南に至り、挺進師師長、閩浙軍区司令員に任命され、国民党の支配地に浙南遊撃根据地を開設した。党上級組織との連絡が失われた情況下において、独立的に遊撃戦を展開した。「敵進我進」の指導方針を採択して、国民党の数次に渡る「進剿」と二次に渡る総兵力40個連隊の大規模「囲剿」を挫折させ、浙南遊撃根据地を発展させた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「粟裕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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