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川田 弘道(かわた こうどう、1893年1月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.173.〕〔アサヒ, p.141.〕〔映画世界社, p.43.〕〔映画世界社, p.53.〕〔''川田弘道''、''jlogos.com'', エア、2013年6月14日閲覧。〕〔''川田弘三''、日本映画データベース、2013年6月14日閲覧。〕〔''川田弘道''、''川田弘三''、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月14日閲覧。〕〔''川田弘三''、allcinema, 2013年6月14日閲覧。〕〔''川田弘道''、日活データベース、2013年6月14日閲覧。〕〔''川田弘道''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月14日閲覧。〕。本名絲井川 清(いといがわ きよし、新漢字表記糸井川 清)〔〔〔〔、活動期の最後の数年に川田 弘三(かわた こうぞう)と名乗る〔〔〔〔〔。 == 人物・来歴 == 1893年(明治26年)1月26日、東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田地区)に生まれる〔〔〔〔〔。 長じて長野に移り、1913年(大正2年)3月、旧制・長野県師範学校(現在の信州大学教育学部)を卒業、旧制小学校の教諭となる〔〔。その後、教職を辞して役者に転向し、1916年(大正5年)、東京市下谷区二長町(現在の東京都台東区台東1丁目)の市村座で旧劇(歌舞伎)の舞台に立つ〔〔。1923年(大正12年)、松竹蒲田撮影所に入社〔〔、同年5月11日に公開された『雪の夜話』(監督池田義臣)に出演して、満30歳で映画界にデビューする〔。同年9月1日に起きた関東大震災で同撮影所の機能は京都に移転、川田は翌1924年(大正13年)、日活関西撮影所に移籍する〔〔。現代劇、時代劇にこだわらぬ多くの映画でさまざまな脇役をこなした〔〔。 1927年(昭和2年)4月、牧野省三が主宰、御室撮影所をもつマキノ・プロダクションに移籍する〔〔〔石割, p.402.〕。同月に同社に入社した俳優には、山本礼三郎と大谷鬼若がいる〔。同社における、記録に残る最初の出演作は、同年5月13日に公開された『悪魔の星の下に』(監督二川文太郎)で、同作では「甘糟郷左衛門」役を演じた〔〔。1928年(昭和3年)、「川田 弘三」と改名、記録に残るうち最初に改名後の名でクレジットされた作品は、同年7月20日に公開された『天明果報談』(監督金森萬象)であった〔〔。同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』では「川田弘道」、翌1929年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』では「川田弘三」の名でそれぞれ掲載されている〔〔。『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』によれば、同年当時の身長は5尺2寸(約157.6センチメートル)、体重は21貫匁(約78.8キログラム)であった〔。 同年7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、川田は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門、市川米十郎、東郷久義、市川幡谷、實川芦雁、桂武男、市川新蔵、津村博、澤田敬之助、河津清三郎、五味國男、柳妻麗三郎、小金井勝、秋田伸一、岡村義夫らとともに「俳優部男優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年6月14日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)4月以降、製作が停止する〔御室撮影所 、立命館大学、2013年6月14日閲覧。〕。同年3月6日に公開された『血ろくろ伝記 前篇』(監督金森萬象)に出演したのを最後に、川田は同社を退社する〔〔〔。満38歳であった、同社退社以降の消息はまったく伝えられていない〔〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川田弘道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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