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糸文弘 : ミニ英和和英辞書
糸文弘[いと ふみひろ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いと]
  1. (n,n-suf) thread 2. yarn 3. string 
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 

糸文弘 : ウィキペディア日本語版
糸文弘[いと ふみひろ]

糸 文弘(いと ふみひろ、1931年5月9日 - )は、日本の映画監督脚本家劇作家演出家である〔キネ旬, p.41.〕〔田中, p.85-86.〕〔年鑑, p.325-333.〕〔年鑑, p.351.〕〔キネ旬, p.13, 43, 120, 124.〕〔''糸文弘''、''jlogos.com'', エア、2014年8月26日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2014年8月26日閲覧。〕〔''糸文弘''東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年8月26日閲覧。〕〔''糸文弘''、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月26日閲覧。〕〔''糸文弘''KINENOTE, 2014年8月26日閲覧。〕〔''糸文弘''日本映画データベース、2014年8月26日閲覧。〕〔''糸文弘''デジタル・ミーム、2014年8月26日閲覧。〕〔劇団三文館 早稲田大学演劇博物館、2014年8月26日閲覧。〕。本名は糸 弘毅(いと ひろき)〔。1950年代に松竹演劇部に所属して「石井均一座」等の軽演劇喜劇の作家として活動し〔、1965年(昭和40年)には映画製作会社LL企画プロダクションの設立に参加して、成人映画の脚本・監督を手がける〔〔。その後、劇団三文館を設立、戯曲演出を手がけてアングラ演劇に転向した〔〔。
== 人物・来歴 ==
1931年(昭和6年)5月9日、鹿児島県大島郡名瀬町(のちの同県名瀬市、現在の奄美市)に生まれる〔。
第二次世界大戦後、5年制の旧制・神奈川県立商工実習学校に進学、同校は1948年(昭和23年)4月1日に新制高等学校に切り替わり、神奈川県立商工高等学校と改称している〔。1949年(昭和24年)3月、同校を卒業、同年4月、早稲田大学理工学部に進学するも、翌1950年6月、同学を中途退学する〔。松竹演劇部に入社し、1957年(昭和32年)5月から浅草公園六区等の新興劇団に上演台本を執筆した〔。軽演劇の劇団「喜劇の王様」、早野凡平らが在籍した「コメディ東京」、石井均が弟子の伊東四朗財津一郎らと1959年(昭和34年)に結成した「石井均一座」等がそのおもな劇団である〔。なかでも「石井均一座」の根城は新宿であり、1958年(昭和33年)10月28日に開館した新宿松竹文化演芸場(現在跡地に新宿ピカデリー)を常打ち小屋としていた。1960年(昭和35年)からはテレビ映画の脚本を手がけたという〔。当時の筆名が不明であり、テレビドラマデータベースでは具体的な該当作品が見当たらない〔全文検索 テレビドラマデータベース、2014年8月26日閲覧。〕。「石井均一座」の女優、糸美智子〔大笹, p.142.〕〔、2014年8月26日閲覧。〕との関係は不明。
『日本映画監督全集』には、1961年(昭和36年)に映画製作会社のLL企画(LL企画プロダクション)の設立に参加、とあるが〔、『日本映画発達史』の田中純一郎によれば、同社の設立は1965年(昭和40年)1月である〔。『日本映画監督全集』には、同社で成人映画の脚本を執筆、監督を志して1964年(昭和39年)9月に『殺された女』で監督に昇進した旨の記述があるが〔、日本映画データベース等の資料では同作の監督は南部泰三であり〔殺された女 、日本映画データベース、2014年8月26日閲覧。〕、渡辺護によれば、同作の監督は南部泰三であり、正しいタイトルは『殺られた女』、渡辺が初めて成人映画の助監督を務めた作品であるという〔渡辺護「おれが南部泰三の助監督をやったやつは 井川耕一郎twitter, 2014年8月26日閲覧。〕〔(井川)渡辺護さんは、助監督として南部泰三『殺られた女』(64)についたとき 、井川耕一郎、twitter, 2014年8月26日閲覧。〕。デジタル・ミームが所蔵する80分の16mmフィルム版上映用プリントのタイトルは『殺られた女』であり、監督は南部泰三とクレジットされている〔。『日本映画監督全集』では、1965年1月公開の『色じかけ』を糸の作品一覧に挙げているが〔、日本映画データベース等の資料では同作の監督は南部泰三である〔〔。1964年 - 1965年の期間、南部の第八芸術映画プロダクション(1949年設立)で脚本を書いていたことは明らかで、1965年4月に公開された南部の監督作『女こまし SUKEKOMASI』の東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵プリントには、同作の脚本として糸の名がクレジットされている〔。1965年4月公開の『色ざんげ』は、第八芸術映画プロダクションが製作した作品であり、いずれの資料も糸が監督であるとしている最初の作品である〔〔〔〔〔〔。
田中純一郎は、『日本映画発達史』のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟新藤孝衛小川欽也小森白山本晋也湯浅浪男宮口圭深田金之助藤田潤一小倉泰美浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、糸の名を挙げている〔。糸は、1966年(昭和41年)2月に公開された『豊原路子の体当りマンハント旅行』で原作者の豊原路子を主演に起用したほか、一星ケミ(一星けみ)の公式なデビュー作『新妻のあやまち』(同年5月10日公開)を監督している〔〔〔〔〔〔〔〔。
糸がLL企画で映画を監督したのは、同年6月7日に公開された『女が指を咬むとき』(主演内田高子)までであり、次に監督した作品は1967年(昭和42年)1月31日に公開された『現代の恐怖』で、同作は東通商映画部が製作〔〔、関東ムービー配給社が配給した。1968年(昭和43年)2月16日には、糸が新たに結成した喜劇の劇団「劇団三文館」が、新宿にあった「実験小劇場モダンアート」(新宿区新宿2丁目12番7号、1967年 - 1987年)で『天使の味』を上演しており、同作の作・演出を糸が行った〔。糸は同館の企画室代表を務め、同館では「アングラ・ヌード」を売り物にした〔新宿アンダーグラウンドの残影 モダンアートのある60年代 6 ばるぼら大洋図書、2007年3月21日付、2014年8月26日閲覧。〕。以降、同劇団の活動に重点を置き、1969年(昭和44年)1月に公開された『歪んだ夜』を最後に映画界を去った〔〔〔〔〔〔。1980年代以降の消息は不明である〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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