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丹前風呂(たんぜんぶろ)は、江戸時代前期(17世紀)の江戸・神田にかつて存在した町風呂(銭湯の一種)群の総称である〔''丹前風呂''、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年8月3日閲覧。〕〔''丹前風呂''、大辞林 第三版、コトバンク、2012年8月3日閲覧。〕。堀丹後守の屋敷の前にあったことから「丹前」と呼ばれるようになった風呂屋(風俗営業の銭湯)〔〕の略称・通称であり、同地には複数の風呂屋が存在した〔〔。もっとも知られるのは紀伊国屋風呂(きのくにやぶろ)で、紀伊国屋風呂 市兵衛(きのくにやぶろ いちべえ)が経営した〔隆、p.48.〕。衣裳の丹前をはじめとし、髪型や服装等、さまざまな流行が生まれた。 == 略歴・概要 == 「丹前風呂」の語源となった堀丹後守(堀直寄)の屋敷は、神田佐柄木町(さえぎまち)にあったとされ、現在の神田小川町、神田淡路町、神田司町2丁目のあたりだという〔〔宮川、p.117-118.〕。寛永年間(1624年 - 1645年)に、「摂津国風呂」という大規模な施設ができたという〔。湯女を多数抱えており、「遊里の趣」があった、つまりは遊郭のようであったという〔〔〔。江戸の他地区、他店と比較しても容色の優れた湯女が多く、身分のある武家の身でありながら身を持ち崩した者も現れたという〔。 「丹前風呂」に限らず、湯女風呂の発展には目に余るものがあるとして、江戸幕府は、1637年(寛永14年)に1店につき3人以上の湯女を置くことを禁じたが、徹底されず効果はなかった〔。 有名な湯女・勝山がいたことで知られる紀伊国屋風呂市兵衛の「紀伊国屋風呂」も、寛永年間に始まったとされ、勝山は1646年(正保3年)に同店に入った〔大石、p.100.〕。1648年(慶安元年)には、湯女を置くことの全面禁止が行われたが、やはり徹底されず効果はなかった〔。 ほかにも丹前地区にあった風呂屋には、「桔梗風呂」、「山方風呂」、「追手風呂」等があった〔藤本、p.232-233.〕。「桔梗風呂」には吉野という湯女がいて、彼女が「丹前節」(略称「丹前」)という小唄の流派の元祖とされる〔。「紀伊国屋風呂」の湯女・市野は、吉野の一番弟子であったが、歌の技術は吉野に優った〔。「紀伊国屋風呂」の勝山、おなじく采女も吉野に直接指導を受けた〔。「山方風呂」の幾夜、「追手風呂」の淡路は市野の弟子であった〔。ほかにも独自の小唄を歌った「山方風呂」の柏木という湯女もおり、いずれも優れた芸であったとされる〔。 1657年(明暦3年)には、幕府が200軒に余る江戸全域の風呂屋の経営を禁止し、紀伊国屋風呂市兵衛らをはじめ、「丹前風呂」の業者たちはいずれも廃業に追い込まれた〔〔。「紀伊国屋風呂」の勝山および「山方風呂」の幾夜は、同年9月(明暦3年8月)、転じて、新吉原の山本芳潤(山本芳順とも)抱えの太夫となった〔〔、2012年8月3日閲覧。〕。「紀伊国屋風呂」の采女は、大店である三浦屋抱えとなった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丹前風呂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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