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紀伊國屋 文左衛門(きのくにや ぶんざえもん、寛文9年(1669年)? - 享保19年4月24日(1734年5月26日)?)は、日本の江戸時代、元禄期の商人である。元姓は五十嵐氏。名は文吉。俳号は千山。略して「紀文」(きぶん)と呼ばれ、「紀文大尽」と言われた。生没年もはっきりしないなど、人物伝には不明な点が多く、半ば伝説上の人物である。「架空の人物である」とする説もあるが、実在したとする説が主流である。 == 生涯 == 紀州湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)の出身。文左衛門が20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられる。元禄年間には江戸八丁堀へ住み、 江戸幕府の側用人柳沢吉保や勘定奉行の荻原重秀、老中の阿部正武らに賄賂を贈り接近したと言われる。上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て幕府御用達の材木商人となるも、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業した。 また、幕府から十文銭の鋳造を請け負ったが、文左衛門の造った十文銭はとても質が悪く、五代将軍綱吉の死と同時にこの十文銭は1年で通用が停止されてしまった為大きな損失を被い商売への意欲を失ってしまった、と言われている。 晩年は浅草寺内で過ごしたのちに深川八幡に移り、宝井其角らの文化人とも交友。「千山」の俳号を名乗った。享保19年(1734年)に死去したとされる。享年66。紀伊國屋は2代目文左衛門が継いだが、凡庸であったために衰退してしまった。 二男は宝永2年(1705年)、程ヶ谷宿本陣6代苅部清兵衛の入り婿になり、持参金で苅部家の借財の返済に充てた。〔「有鄰」第465号(平成18年8月10日)〕 八丁堀に広大な邸を構え、奈良屋茂左衛門勝豊との吉原における豪遊の逸話が伝わっている。巨利を築く伝説は河村瑞賢とも融合している。 ※尚、株式会社紀文食品の前身である「紀伊國屋」も果物を扱っていたが、紀伊國屋文左衛門との関係はない。この由来については保芦邦人の項を参照。 * 墓所 * 成等院(東京都江東区) * 勝楽寺(和歌山県有田郡湯浅町) * 戒名 - 帰性融相信士 和歌山県有田郡湯浅町には、松下幸之助が建てた紀伊國屋文左衛門生誕の碑がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「紀伊國屋文左衛門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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