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紀伊型戦艦(きいがたせんかん)は日本海軍が八八艦隊計画で計画した戦艦である。4隻の建造が計画されていたがすべてワシントン海軍軍縮条約で起工前に建造中止となった。 ==概要== 八八艦隊計画の完成案である八八艦隊案の予算が1919年(大正8年)に提出、翌1920年(大正9年)に成立し、加賀型戦艦と天城型巡洋戦艦に続く9号艦以降の戦艦・巡洋戦艦の計画が進められていた。当初は建造期間や予算の問題から加賀型や天城型の同型ないし一部改正型の追加建造を検討していたが、その途上で火力や防御力で加賀型を上回るサウスダコタ級戦艦の情報を入手したこともあって、用兵側からサウスダコタ級に対抗できる新型艦を要求する声が高まった。また同時期に平賀譲が4連装砲塔の採用を上申したこともあり、1920年(大正9年)春から次期戦艦に搭載する主砲口径や砲塔形式を検討する「主砲研究会」が軍令部参謀であった安保清種を長として開かれた。主砲研究会では41センチ砲の50口径化による威力の向上や将来の46センチ砲採用、41センチ3連装砲塔を4基搭載する12門艦の早期建造を提言したものの、1921年(大正10年)度の起工を予定していた八八艦隊計画の9号艦と10号艦には新型主砲や砲塔の準備が間に合わないことから、天城型巡洋戦艦を基にして一部を改正した戦艦を建造することになった〔『帝国海軍の礎 八八艦隊計画』p.104-108、p.118-125、『丸』2010年12月号p.140-142〕。このため兵装や機関出力は天城型と同一で、船型もほとんど共通であるが、天城型と比較して舷側や甲板、主砲塔等の装甲を1インチから1インチ半増厚、煙路や通気口への防御甲板追加で加賀型戦艦を上回る防御に強化したことにより排水量が約1400~1600トン増加するため、速力は天城型より低下して29.75ノットになるとされていた(ただし、これらは机上の計算値でしかなく、実際には重量増が1400トン程度では収まらず、速力はより低下していただろうという説もある)。 こうして八八艦隊計画の9号艦と10号艦を紀伊型として建造することは決定し1921年(大正10年)10月に「紀伊」「尾張」の建造訓令が出された。一方で1922年(大正11年)度以降の建造が予定されていた11号艦と12号艦については紀伊型の船体を基本としつつ主砲研究会の提言通り新型の主砲や砲塔を搭載する案、船体規模を5万トン前後に大型化する案など〔『帝国海軍の礎 八八艦隊計画』p.108-109、『丸』2011年2月号p.140-143〕も検討されていたが、ワシントン海軍軍縮条約の締結により「紀伊」と「尾張」は起工を待たず中止、11号艦と12号艦も詳細な設計には至らず中止された。 後の「超大和型戦艦」(計画のみ)は紀伊と尾張の名を受け継ぐ予定であったとも言われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「紀伊型戦艦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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