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紀楳亭[き] 紀 楳亭 (き(の) ばいてい、享保19年(1734年) - 文化7年7月7日(1810年8月6日))は、日本の江戸時代中期に活躍した絵師。与謝蕪村の高弟で師の画風を忠実に継承し、晩年大津に住んだため、近江蕪村と呼ばれた。 == 略伝 == 山城国鳥羽出身。俗称は立花屋九兵衛。楳亭は画号(当初は画室の号)で、俳号は梅亭。名は時敏、字は子恵、仲文。大津移住以前は、「巖」姓と、名に「郁」を用いて巖郁と称し、移住後は紀姓を名乗った。還暦後は九老という号で署名しており、大津の人々にも「九老さん」と親しまれている。 はじめ蕪村の友人でった文人・岩城藍田に、家僕として働いていた。藍田は楳亭の画才を見抜き、蕪村入門を仲介したという。当初名乗った「巖」姓は、その恩義から岩城を1字に修めた名乗りとも考えられる。蕪村に絵と俳諧を学び、松村月渓(呉春)と共に親しく仕えた。安永7年(1778年)以前に剃髪し、楳亭と称する〔竹内千代子 「『九老画譜』の成立と趣向 (PDF)」『アート・リサーチ』9号、立命館大学アート・リサーチセンター、2009年3月、pp.92-80。〕。楳亭の史料上の初見は、天明2年(1782年)版『平安人物志』で、画家の部の21番目に記載されており(蕪村は4番目)、この時点で師から独立した画人として京で認知されていたことがわかる。翌年の12月に蕪村が亡くなると、追善集『から檜葉』に「夜や昼や 涙にわかぬ 雪くもり」と師を悼む句を寄せている。 天明8年(1788年)1月に天明の大火で焼き出されると、同門で南画をよくした大津石川町長寿寺の住職・龍賀の元に身を寄せる。近隣の両替商で俳諧を嗜む中村愈鄂に借家を世話してもらい、以後大津に居を定めた。ところが翌年、同じく大津に移ってきた娘さとを、大家の罹災が原因でか亡くしてしまう。楳亭作品は寛政年間前期以前の現存作品が少ないが、大火以前に手掛けた作品の焼失と、移住後まもなくの身内の不幸が原因だと考えられる。その後、大津の人々との交流を通じて立ち直り多くの作品を残した。享年77歳。墓は小関町の共同墓地。大津鍵屋町の借家跡には、「紀楳亭居住之地」の標石が建っている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「紀楳亭」の詳細全文を読む
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