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紅澤 葉子(べにさわ ようこ、新字体:紅沢、1901年8月28日 - 1985年4月27日〔紅沢葉子 、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2010年2月10日閲覧〕)は、日本の女優。本名は友野 はな(ともの はな)〔。 伊庭孝らの新星歌舞劇団を経て、大正活映に入り『蛇性の淫』などの映画に出演。その後牧野教育映画製作所、帝国キネマ、マキノ・プロダクション、日活、松竹などに移って脇役女優として活躍した。元夫は映画監督の古海卓二。 == 来歴・人物 == 1901年(明治34年)8月28日、神奈川県横浜市に乾物商の父・要蔵と母・マサの1男4女の二女として生まれる〔紅沢葉子 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2015年10月24日閲覧〕〔『日本映画俳優全集・女優編』、1980年、キネマ旬報社、p.587〕。 横浜市立第一南吉田小学校を経て旧制・神奈川県立高等女学校(現在の神奈川県立横浜平沼高等学校)を卒業。在学中に高木徳子の歌舞劇協会に参加するが、1919年(大正8年)3月20日に高木が亡くなると伊庭孝らが結成した新星歌舞劇団に入る〔。翌1920年(大正9年)、歌劇団の作者だった古海卓二と結婚して舞台を退き、活動倶楽部社に客員として入り、雑誌『オペラ評論』の編集に携わる〔。 同年、活動倶楽部社が発行する映画雑誌『活動倶楽部』に大正活映(略称:大活)の附属俳優養成所第1期生募集の広告が掲載され、『活動倶楽部』編集部にいた野田高梧や小田喬らの薦めでこれに応募、採用されて神奈川県横浜市山下町の大活養成所に入る〔。同期には高橋英一(後の岡田時彦)、竹村信夫らがおり、のちに江川宇礼雄、横田豊秋、内田吐夢らが加わった。大活は谷崎潤一郎を文芸顧問、ハリウッド帰りの栗原トーマスを監督に迎えて、純映画の製作を目標に創設され、その第1作『アマチュア倶楽部』には女中役で出演する〔。3ヶ月間の養成を終えると、短編映画『泥の災難』『神の摂理』で主役を演じ、続く栗原監督の『蛇性の淫』では高橋(岡田)演じる豊雄を誘惑して夫婦になる蛇の化身・真女児役で主演する〔。やがて大活は経営不振から解散同然となる。 1922年(大正11年)、夫の古海が牧野教育映画製作所に監督として迎えられていたことから、江川や内田とともに同社へ転じ、夫が監督した『心の扉』に主演する〔。同年に夫が牧野省三と決裂し、夫婦ともども退社〔玉川しんめい『日本ルネッサンスの群像 大正期ロマンチストの系譜』、白川書院、1977年、p.43〕、1924年(大正14年)に帝国キネマの大量引き抜きに応じて夫婦で入社して現代劇部に所属、古海の『行路』に岡田時彦、森静子と共演し、『薫る水仙』では横山運平を誘惑する村の酌婦を演じる〔。1926年(大正15年)、古海がまたも会社と衝突し、そろって退社する羽目になる。古海が創立した第一線映画聯盟の第2作『恐ろしき邂逅』に高堂國典と共演したのち、同年にマキノ・プロダクション御室撮影所に入社して『乃木将軍旅行日記』『へらへら武者修行』などに出演〔。1927年(昭和2年)に退社すると家庭に入って育児に専念するが、1934年(昭和9年)に古海と離婚する〔。 1935年(昭和10年)、日活多摩川撮影所に入社して映画に復帰〔。内田吐夢監督の『人生劇場』で小杉勇演じる青成瓢吉の幼馴染の母親を演じたほか、渡辺邦男監督の『うら街の交響楽』、熊谷久虎監督の『蒼氓』などに助演。1942年(昭和17年)1月に日活が大映に吸収合併されると退社して、同年4月に松竹大船撮影所へ入社〔。戦後も松竹大船に在籍し、小津安二郎監督の『晩春』、木下惠介監督の『少年期』などに出演。1955年(昭和30年)には映画製作を再開していた日活と再び契約を結んだ。 1985年(昭和60年)4月27日、心不全のため死去〔『キネマ旬報』1985年6月下旬号、キネマ旬報社、1985年、p.149〕。83歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「紅澤葉子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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