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純丘 曜彰(すみおか てるあき、Teruaki Georges Sumioka 1962年 - )は、日本の哲学者、表象文化論研究者(映像文法、映像ビジネス)、小説家、クリエーター。大阪芸術大学芸術学部教授。 東京生まれ。博士(美術)(東京芸術大学)、文学修士(東京大学)。東海大学准教授、ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ(マインツ大学)客員教授を経て、大阪芸術大学芸術学部教授。 水府森家の末裔、版画家稲田年行の息子。憲法学者小林直樹の親族(甥の子)。母方は手品師松田昇太郎の孫、江戸銅座勤方松田甚兵衛の末裔。 ==思想== 長尾龍一、渡邊二郎に師事し、法哲学を起点に、1980年代はヘーゲルやウェーバーを基礎として、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの概念、日常言語学派の言語行為論を踏まえ、デカルトを嚆矢とする近代主観主義の認識論に対し、行為と行為の主体についての存在論を論理学の観点から研究。ハーバーマスとルーマンの社会システムとコミュニケーションに関する論争の延長線上において、ハイデガーの存在論ですら主観的認識論であるとし、サルトルの間主観的な実存主義を発展させて新たに自証・対証・衆証という論理学的存在概念を立て、他者によって補証された行為が主体の存在を逆措定する、とした。 その後、純丘はディルタイやガダマーの解釈学における脈絡依存性(解釈学的循環)の考察を経て、1990年代には、経済活動におけるサービスや法人格の存在性を実証的に問う。 しかし、2000年代になると、一転して映画作品を題材とするようになり、行為と行為の主体を人為的に構成する、脈絡としての物語の分析、および、その創作論を美学・芸術学として探求。バウムガルテンに倣い、美とは真についての感性的論証である、と論じる。このために、純丘は対話(ディアローグ)に代えて対為(ディアゴーグ)と言い、プラトン以来の弁証法(ディアレクティーク)に対して行証法(ディアクティーク)を考えた。この行証法は、映画の中の人物相互のミュトス(元物語)においてだけでなく、映画の作り手と観客の間のエロキューション(語り口)としても存在し、この2つの行証法によって映画の物語はT型グランド・ストラクチャーをなす、とした。また、映像に関しても、脚本の要素を言語的に分節化して人為的に部分カットを組み上げていくエイゼンシュテイン・モンタージュよりも、複数のカメラで実際の演技を同時多面的に撮影したマルチ・カヴァレッジを再構成するグリフィス・モンタージュの手法を重視している。そして、映画のエピソードもまた、同一のテーマを多面的に描き出すものでなければならないとし、しだいにテーマに近づく物語のスパイラルアップ構造を論じた。 近年は、ポスト・モダニズム論に傾倒し、記号的な表象表現形式であるアニメや脈絡を転用して物語を再生産するお笑いにも関心を広げている。インターネット上での発言も多く、自らの政治的・学術的意見を、言論プラットフォーム『アゴラ』等にて度々寄稿・発信している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「純丘曜彰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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