|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 川 : [かわ] 【名詞】 1. river 2. stream
細川 斉護(ほそかわ なりもり、文化元年9月16日(1804年10月19日) - 万延元年4月17日(1860年6月6日))は、肥後宇土藩の第8代藩主、のち肥後熊本藩の第10代藩主。熊本藩細川家11代。 宇土藩主・細川立之の長男で、第8代熊本藩主・細川斉茲の孫にあたる。母は土井利厚の娘。正室は広島藩主・浅野斉賢の娘。子に護前(長男、のち慶前に改名)、護順(次男、のち慶順、韶邦に改名)、護久(三男)、護明(四男、津軽順承養子)、長岡護美(六男、熊本藩執政)、勇姫(三女、越前松平慶永(春嶽)正室)などがいる。 幼名は与松。宇土藩主時代は細川 立政(ほそかわ たつまさ)と名乗る。官位は従四位下、中務少輔、越中守、左近衛権中将。侍従。 文政元年(1818年)、父の死により跡を継いで宇土藩主となる。文政9年(1826年)に叔父の熊本藩主・細川斉樹の養嗣子となって本家の家督を継いだ。この時、名を立政から斉護(「斉」は将軍・徳川家斉からの偏諱、斉護以降「護」は細川家の通字となり現在に至っている)に改め、宇土藩は弟の行芬が継いでいる。 当時、熊本藩では代々の藩主による出費などで、すでに80万両という膨大な借金を抱え、財政は破綻寸前となっていた。しかもこのような中で、アメリカやイギリスなどの日本接近もあって、幕府から天草地方や相模湾警備を命じられ、その出費で財政はさらに悪化した。このため、斉護は財政再建のために藩政改革に取りかかるが、その方針をめぐって横井小楠・長岡是容ら改革派と松井佐渡(=10代当主松井章之(てるゆき))ら保守派が対立し、かえって藩内が二分された。このような混乱と苦悩の中で万延元年(1860年)、斉護は57歳で死去した。長男の慶前は早世していたため、跡は次男の護順改め慶順(のちの韶邦)が継いだ。 == 出典 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細川斉護」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|