翻訳と辞書
Words near each other
・ 細川政権
・ 細川政権 (戦国時代)
・ 細川政賢
・ 細川教春
・ 細川教春 (和泉上守護家)
・ 細川教春 (野州家)
・ 細川文昌
・ 細川斉樹
・ 細川斉茲
・ 細川斉詮
細川斉護
・ 細川日記
・ 細川昌彦
・ 細川昌興
・ 細川春倶
・ 細川昭元
・ 細川晃弘
・ 細川景一
・ 細川晴之
・ 細川晴元


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

細川斉護 : ミニ英和和英辞書
細川斉護[ほそかわひとしまもる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 

細川斉護 : ウィキペディア日本語版
細川斉護[ほそかわひとしまもる]

細川 斉護(ほそかわ なりもり、文化元年9月16日1804年10月19日) - 万延元年4月17日1860年6月6日))は、肥後宇土藩の第8代藩主、のち肥後熊本藩の第10代藩主。熊本藩細川家11代。
宇土藩主・細川立之の長男で、第8代熊本藩主・細川斉茲の孫にあたる。母は土井利厚の娘。正室は広島藩主・浅野斉賢の娘。子に護前(長男、のち慶前に改名)、護順(次男、のち慶順、韶邦に改名)、護久(三男)、護明(四男、津軽順承養子)、長岡護美(六男、熊本藩執政)、勇姫(三女、越前松平慶永(春嶽)正室)などがいる。
幼名は与松。宇土藩主時代は細川 立政(ほそかわ たつまさ)と名乗る。官位は従四位下、中務少輔、越中守、左近衛権中将。侍従
文政元年(1818年)、父の死により跡を継いで宇土藩主となる。文政9年(1826年)に叔父の熊本藩主・細川斉樹の養嗣子となって本家の家督を継いだ。この時、名を立政から斉護(「斉」は将軍・徳川家斉からの偏諱、斉護以降「護」は細川家の通字となり現在に至っている)に改め、宇土藩は弟の行芬が継いでいる。
当時、熊本藩では代々の藩主による出費などで、すでに80万両という膨大な借金を抱え、財政は破綻寸前となっていた。しかもこのような中で、アメリカイギリスなどの日本接近もあって、幕府から天草地方や相模湾警備を命じられ、その出費で財政はさらに悪化した。このため、斉護は財政再建のために藩政改革に取りかかるが、その方針をめぐって横井小楠長岡是容ら改革派と松井佐渡(=10代当主松井章之(てるゆき))ら保守派が対立し、かえって藩内が二分された。このような混乱と苦悩の中で万延元年(1860年)、斉護は57歳で死去した。長男の慶前は早世していたため、跡は次男の護順改め慶順(のちの韶邦)が継いだ。
== 出典 ==






抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「細川斉護」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.