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細川 晴国(ほそかわ はるくに)は、戦国時代の武将。細川氏野州家当主の細川政春の子として生まれる。管領細川高国の実弟であるが、高国の実子であるという説もある。(また、「晴」の字は第12代将軍足利義晴から賜ったものであり、第10代将軍足利義稙から偏諱の授与を受けた甥(高国の実子)の稙国より年下の可能性が高い。) 兄高国が本家の京兆家当主細川政元の養子となったため、野州家を継いだ。高国が政元死後の永正の錯乱の家督争いに勝利し、中央で政権を握ると、兄の補佐を務めた。 享禄4年(1531年)に、高国が三好元長や細川晴元らの攻撃を受けて戦死すると(大物崩れ)、晴国は高国派の摂津・丹波における勢力に次期京兆家当主として擁立され、天文2年(1533年)5月に山城において挙兵し、細川晴元と戦った。 始めは石山本願寺と結んだ晴国が優勢で、6月には晴元側の武将・薬師寺国長を敗死させる戦果を挙げたが、同年冬に晴元の要請を受けた法華一揆に攻められ敗北した。やがて石山本願寺と晴元が和睦を結んで劣勢となり、天文5年(1536年)8月29日、晴元と内通した三宅国村の裏切りにより、摂津天王寺で自害に追い込まれた。 死後、野州家の家督は猶子である弟の通政が継承したが、通政とその後継の通薫(晴国の実子)は備中の国人領主の立場に甘んじるに留まった。畿内における晴元との抗争は高国の養子を称する細川氏綱によって引き継がれることになる。 == 関連項目 == *細川氏 *享禄・天文の乱 *野州家系図 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細川晴国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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