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細川 澄元(ほそかわ すみもと)は、戦国時代の武将・守護大名。 == 生涯 == === 出生 === 延徳元年(1489年)、細川氏の庶流である細川義春(細川頼之の弟である細川詮春の子孫)の子として生まれた。父の義春は阿波守護を務めていたが、澄元が9歳の時に死去した為、祖父の成之に養育された。 澄元の生まれた阿波細川家(詮春流)は細川氏の支族であり、相伴衆の格式でもあった。一方で本家の細川京兆家当主細川政元は当時管領として幕府で重きを為していたが、独身を貫き子が無かった為、摂関九条家からの養子・聡明丸(のちの細川澄之)を家督継承者としていた。しかし、政元は聡明丸と折り合いが悪く、文亀3年(1503年)5月に聡明丸を廃嫡し、六郎(澄元)を養嗣子として迎え入れた〔『三好長慶』〈人物叢書〉14頁。〕〔澄元が選ばれた背景として、澄元の父である義春が明応3年(1494年)に山城守護職を伊勢貞陸と争って敗れて以来、死ぬまで政元に反抗的な態度を取り続けていたため、京兆家(細川氏本家)と阿波細川氏の結合を回復させる動きがあったとされている(古野貢「室町幕府―守護体制と細川氏権力」(初出:『日本史研究』510号(2005年)/改題所収:「京兆家-内衆体制」古野『中世後期細川氏の政治構造』(吉川弘文館、2008年)第二部第四章)。 〕。同年に元服、第11代将軍・足利義澄より偏諱を受けて澄元と名乗る。この際に京兆家の家督継承者に付けられる「元」の字を与えられていることから政元より嫡子(後継者)と見なされていたことがわかる(逆に廃嫡された聡明丸改め澄之には「之」の字が与えられている)。 こうして政元の後継者となった澄元は永正3年(1506年)から永正4年(1507年)にかけて、政元の命令で澄之と共に丹後の一色義有を攻めたが、敗北している〔敗北の理由は、澄之が敵の一色方と内通して落城を装い、兵を退いたためである。澄之は自身が廃嫡されたことを許せるはずもなく、のちの政元・澄元の暗殺計画に黒幕として関わることとなる。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細川澄元」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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