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細川 綱利(ほそかわ つなとし)は、第3代肥後熊本藩主。熊本藩細川家4代。第2代藩主細川光尚(光利)の長男。 吉田司家を肥後に招き、当時衰退していた相撲道を後援したことや、赤穂事件後に大石良雄らのお預かりを担当したことで知られる。 == 生涯 == 正保2年(1645年)11月11日、将軍徳川家光に初御目見する。慶安2年(1649年)12月28日に父・光尚が死去したが、六丸こと綱利は6歳と幼かったため、通常であれば細川家は改易されかねないところであった。しかし光尚が、幕府に対して肥後領地返上の遺言をしたためており、徳川家の覚えがめでたかったことと、細川家臣の懸命の奔走もあって、綱利へ相続させるべきか否か幕府内で議論された。結局、慶安3年(1650年)4月18日に綱利への相続が認められたが、領地の支配は幕府目付と親戚の小笠原忠真(豊前小倉藩主)の監督を受けた。承応2年(1653年)12月11日に将軍徳川家綱から偏諱を受け、父の旧名の一字と組み合わせて、綱利と改名した。また従四位下侍従・越中守に叙任した。 寛文2年(1662年)3月には弟利重に5,000石を分与し、さらに寛文6年(1666年)7月には新田3万5,000石を内分支給する形で江戸鉄砲洲に定府の熊本新田藩を立藩させた。 寛文3年(1663年)6月、正室・犬姫と結婚した。元禄9年(1696年)11月5日、左近衛権少将の官位を加えられた。また元禄10年(1697年)6月、熊本新田藩主利昌の弟(綱利の甥)利武に5,000石を分与した。 宝永3年(1706年)4月、嫡男・吉利が死去したため、利武(宣紀と改名する)を養子に迎える願いを出し、宝永5年(1708年)1月に認められた。 正徳2年(1712年)7月11日に隠居した。正徳4年(1714年)11月13日に死去した。享年72。熊本の護国山妙解寺に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細川綱利」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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