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細川 重賢(ほそかわ しげかた)は、肥後熊本藩6代藩主。第4代藩主・細川宣紀の五男。熊本藩細川家7代。 紀州藩第9代藩主・徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君であった。 初めは父・宣紀より1字を与えられて長岡紀雄〔『大名細川家の至宝 文武の歴史と雅の文化・永青文庫名品展』(編:山梨県立美術館)掲載系図より。〕(ながおか のりお)、兄・宗孝の跡を継いでからは細川重賢と名乗る。改名後の「重」の字は将軍徳川家重より偏諱を賜ったもので、「賢」の字はかつて細川典厩家が通字として用いていたものに由来する(実際、典厩家の当主にも同名の細川重賢という人物がいた)。 == 生涯 == === 家督相続 === 享保5年12月26日(新暦1721年1月23日)に生まれる。享保17年(1732年)、父・宣紀が死去すると、兄・宗孝が跡を継ぐ。宣紀の時に既に40万両近い借財を抱え、宗孝の時代には大藩故の過度な出費、宗孝治世のほとんどを襲った凶作などにより収入は激減し、藩財政は転げるように落ち込んでいく。当時の熊本藩の困窮ぶりは「鍋釜の金気を落とすに水はいらぬ。細川と書いた紙を貼ればよい」と揶揄されるほどであった。 重賢も、部屋住み時代には質屋に通ったと言われるほどで、この時の質札を生涯手元に置いておいたという逸話が残っている。 延享4年(1747年)8月15日、江戸城本丸大広間において、兄・宗孝が旗本板倉勝該に背後から襲われるという事件が発生する。家紋の九曜紋が似ていることからの人違いで起きた事件である。殿中での刃傷や死は理由を問わず御法度(喧嘩両成敗)であり、細川家はお家取り潰し・無嗣改易の危機に陥った。しかし仙台藩主伊達宗村の機転を利かせた指示で、すでに死んでいた宗孝はまだ息があったことにして細川屋敷にこっそり運び出され、翌日死亡したことにされた。幸いに細川家にお咎めはなく、宗孝には世嗣がなかったことから、弟の重賢が末期養子とされて家督が回ってくることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細川重賢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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