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細川 頼種(ほそかわ よりたね、生年不詳 - 建武3年6月20日(1336年8月5日))は南北朝時代の武将。細川遠州家の祖にあたる人物。細川氏庶流の細川宗義(むねよし)の子。細川頼貞・公頼の従兄弟にあたる。通称は七郎五郎。子に上野義幸(よしゆき)、細川頼元(よりもと)。 == 生涯 == 『尊卑分脈』によれば伯父にあたる細川義久(よしひさ、又三郎)の養子になったとされる。足利尊氏が建武政権から離反した後、細川氏は主に四国において軍事活動を展開したが、頼種は一族と行動をともにせず本貫地三河の守備部隊に属した。 建武3年(1336年)4月8日に新田左馬助〔新田義氏。「吉良町史」では江田義氏と推測している。一方、「新田岩松氏」では大井田義氏が該当するとしている。〕率いる遠江の南朝軍が三河に侵攻、同月20日に吉良荘(愛知県西尾市)で激戦が繰り広げられた。足利勢の大将は「宮内少輔四郎」〔吉良貞経と考えられている。同項参照。〕で、頼種は貞経の指揮下で奮戦し新田勢を退けた。足利勢は6月8-9日に宝飯郡八幡、6月28日に宝飯郡本野原(いずれも愛知県豊川市)で追撃戦を行い、新田勢を三河から駆逐することに成功、更に遠江まで進んで天竜川畔で新田勢と戦っている〔「仁木義長軍忠状」(『愛知県史別巻』所収「榊原文書」。)〕。 追撃戦の最中、6月20日に頼種は討死した〔『尊卑分脈』には「三河国吉良合戦」において討死と記述されている。〕。 子孫は細川氏分国の守護代を務める家柄となり、頼種の孫(頼元の子)・頼益(よります)は応永年間に細川満元のもと丹波守護代を務め、その子氏有(うじあり)は応永年間に淡路守護代を、頼益の孫(氏有の兄・満益(みつます)の子)にあたる持益(もちます)は嘉吉から寛正にかけて細川勝元のもと土佐守護代を務めていることが確認されている〔参考文献 小川p.303-304,308-314〕(細川氏#遠州家も参照)。持益の子が応仁の乱に際して勝元を支援した勝益である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細川頼種」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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