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細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。室町幕府管領、摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。 細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。 養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。 == 生涯 == === 澄之・澄元との争い === 文明16年(1484年)、細川氏一門・野州家の細川政春の子として生まれた。高国が京兆家当主・細川政元の養子となった明確な時期は不明であるが、細川澄之・澄元の後に養子になったようで、政元にとっては3番目の養子であった。但し、その名から判るように3人の中で最も早く元服している(義高→高国、義澄→澄元・澄之、室町幕府第11代将軍は義高、義澄の順に改名、すなわち3人の元服の順番は養子になった順と逆ということになる)。 永正4年(1507年)6月、政元が澄之派の重臣香西元長や薬師寺長忠らによって殺されると、8月に澄元は澄之討伐の兵を挙げた。この時高国は、澄元を支持して同族の細川政賢・細川尚春と共同で討伐に貢献し、澄元の家督相続を承認した(永正の錯乱)。 ところが、この一連の政変を好機と見た周防の大内義興は、庇護していた流れ公方の前将軍足利義稙を擁して上洛軍を発した。そこで、澄元の命令で義興との和睦交渉に当たった高国だったが、澄元に背いて義興に通じると伊勢に逃れた。永正5年(1508年)には、仁木高長(仁木氏)、伊丹元扶、内藤貞正(国貞の父)らと呼応して京に侵攻し、澄元や将軍足利義澄を近江に追放した。これに対し、5月5日に高国を京兆家当主であることを承認する義稙の御内書が出されている。そして大内義興と共に入京し足利義稙を将軍に復職させ、自らは7月18日に右京大夫・管領に任ぜられた。 永正6年(1509年)、澄元の重臣・三好之長による京都侵攻を受けたものの、大内義興と協力して退け(如意ヶ嶽の戦い)、逆に近江に侵攻して勝利している。しかし永正7年(1510年)に近江への再侵攻した際には、澄元方を支持する国人の反抗もあって大敗を喫し、敗戦の責任をとって出家しようとしたほどであった。なおも政権奪還を諦めぬ澄元の攻勢を許した永正8年(1511年)、細川政賢〔細川政賢は高国の父・政春の従兄弟、かつ高国自身にとっても岳父(妻の父)と血縁的にも深い関係にあった人物だが、政賢は自分の妻の兄弟にあたる澄元に加担し高国に対抗、船岡山合戦にて戦死する。〕や赤松義村まで加担した澄元方による京への再侵攻(深井城の合戦、芦屋河原の合戦)を受ける。そこで一時劣勢に追い込まれて丹波にまで撤退した高国だったが、澄元方の擁する前将軍足利義澄の病死などにも助けられて、8月24日の船岡山合戦に勝利した。 永正15年8月2日(1518年9月6日)、それまで政権を支えてきた大内義興の周防への帰国によって、高国は単独で政権を運営する。しかし永正16年(1519年)、それを好機と見た阿波の澄元・三好之長らの摂津侵出(田中城の戦い)を許し、またも窮地に立たされる。そして翌永正17年(1520年)2月、大内軍の不在が響いたのか敗戦して近江坂本まで退散させられた。そこへ保身を図らんとする将軍足利義稙には、これを機に澄元と内通されてしまう〔『後法成寺関白記』永正17年2月20日に記主である近衛尚通が清原宣賢より、同月17日付で細川澄元から畠山順光(義稙側近)に充てられた義稙との連携を求める書状の案文を見せられてこれを引用している(浜口誠至『在京大名細川京兆家の政治史的研究』思文閣出版、2014年、P229-234)。〕。しかし、5月には六角氏・朝倉氏・土岐氏らの支援を仰ぎ、再度挙兵。京へ反撃侵攻した高国勢は之長を自害に追い込み、澄元を摂津に敗走させ、政権転覆の危機を乗り切ってみせた(等持院の戦い)。同年6月2日(6月16日)には、高国と長年に亘り対立を続けてきた澄元が阿波で病死すると、高国を見限って澄元に乗り換えようとした将軍義稙の面目は失われ、敵対者のいなくなった高国は事実上の天下人となった。なお、大内義興と細川高国には朝廷よりそれぞれ従三位と従四位下叙位の話があったが、義興は受諾したものの、高国は辞退して代わりに将軍の自邸への御成を受けている〔義興の決定は『実隆公記』永正9年3月26日条、高国の辞退は同3月28日条、高国邸への将軍義稙の御成は『後法成関白記』永正9年4月16日条(浜口誠至『在京大名細川京兆家の政治史的研究』思文閣出版、2014年、P91-93・227-229)。〕。 この後、高国は味方として武功も多かった瓦林正頼(河原林政頼)らに謀反の嫌疑をかけて殺害。自身の地位を脅かす恐れのある者の排除に乗り出し、内部の引き締めを図っている。永正18年3月7日(1521年4月13日)には、立場を失った将軍足利義稙が京を出奔。このため同月22日に行われた後柏原天皇の即位式は、高国のもとで行われた。これにより天皇の信任を失った義稙を排斥して、かつての敵対者であった義澄の遺児である足利亀王丸を擁立。将軍不在による高国政権の存続危機を防いだ。7月6日には亀王丸の上洛を迎え入れると、大永に改元後の8月29日には、亀王丸による代始の参賀を行わせた。12月24日に元服して義晴と改名〔「義晴」を候補とした勘文を作成したのは東坊城和長であるが、和長は「義晴」の名前に不満を抱いている(『和長卿記』大永元年7月条)。実際には高国が自分で考えた「義晴」を強引に候補に入れさせたとみられる(浜口誠至『在京大名細川京兆家の政治史的研究』思文閣出版、2014年、P108-110)。〕した亀王丸は、翌日将軍に補任された〔『二水記』大永元年11月28日条に、高国が26日付で(新将軍の)管領に任じられた記事が見られる。〕。その後、前将軍・義稙からの侵攻を何度か受けるが、大永3年(1523年)4月に義稙も死去したため、高国の勝利に終わった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細川高国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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