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細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日 - 1963年(昭和38年)8月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士25期。最終階級は陸軍中将。 == 経歴 == 長野県東筑摩郡松本町(現・松本市)にて、判事岡正純の子として生まれる。のち細見家に養子に入る。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を経て陸軍士官学校に入学。1913年(大正2年)5月、同校を卒業(25期)し、歩兵第50連隊附。中尉昇進後の1920年(大正9年)、歩兵士官としてシベリア出兵に参加し、装甲車小隊長を務める。帰国後、陸軍歩兵学校に転任し、そこでホイペット、ルノーFTの研究にあたる。 その後、軍事参議官兼教育総監・菊池慎之助大将の副官をつとめ、歩兵第59連隊附を経て戦車隊に転属。1937年(昭和12年)8月14日、歩兵中佐として戦車第5大隊長に就任し、徐州作戦に参加。 翌年7月15日帰国し、千葉陸軍戦車学校幹事、陸軍機甲整備学校幹事と教育畑を歩き、1942年(昭和17年)、陸軍機甲整備学校長に就任。 その後は再び指揮官に戻り、戦車第1旅団長、独立戦車第1旅団長を経て終戦間際の1945年6月15日、戦車第1師団長に就任し本土決戦の任を負うも叶わず終戦を迎える。 同年11月に復員。1947年、公職追放を受けた後は故郷の長野に戻って静かな余生を送り、71歳で亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細見惟雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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