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細谷 四方洋(ほそや しほみ、1938年3月8日 - )は、広島県尾道市出身の元レーシングドライバー〔LEGEND OF HERO TOYOTA2000GT ~伝説は尾道からはじまった~ 〕〔TEAM TOYOTA ~トヨタの礎を築いた10人 〕。 トヨタ純血ワークスチームだった「チーム・トヨタ」のキャプテンを務めた〔。 ==来歴== 父親は警察官だったが広島市で原爆に遭い殉職したという。 広島県立尾道商業卒業〔。1963年に開催された第1回日本グランプリのC-IIクラス(400〜700cc)に、完全ノーマルのトヨタ・パブリカ700でプライベーター(個人)として出場し3位〔。 その技術を見込まれ1964年、トヨタのワークスドライバーになる〔〔。当時のトヨタは、開発を行うトヨタ自工と販売を行うトヨタ自販が別々だったが(後に合併)、細谷はプロとしてトヨタ自工と契約し技術部に所属〔。トヨタ・2000GT開発ではボデーライン設計や走行テストを担当した〔〔『細谷四方洋 回想録 #1』: 三妻自工 Blog 〕。同年の第2回日本グランプリT-IIクラスでパブリカに乗り2位。 1965年10月のKSCCオール関西チャンピオンレースのGT-IIクラスでコロナに乗り優勝。 1966年、トヨタ自工の正式なワークスチームとして「チーム・トヨタ」が発足〔トヨタ博物館で企画展「モータースポーツ コレクション」を開催 〕。当初のメンバーは細谷、田村三夫、福澤幸雄の3人で、細谷がキャプテンに任命された。2000GTプロトタイプによる速度記録挑戦の際に津々見友彦と鮒子田寛がチーム・トヨタに加わり、5人のローテーションで同年10月に数々の世界記録を樹立。レースでは、同年1月の鈴鹿500kmレースでトヨタ・スポーツ800に乗り優勝、同年3月のクラブマン富士大会(富士スピードウェイのオープニングレース)でトヨタRTX(1600GTの原型)に乗り優勝、同年6月の鈴鹿1000kmレースで2000GTに乗り2位(田村三夫とペア)などの成績をあげる。 1967年4月の富士24時間耐久で2000GTに乗り優勝(大坪善男とペア)。同年7月の富士1000km耐久で優勝(同)。 1968年6月、トヨタ初の本格的プロトタイプレーシングカーであるトヨタ7に乗り、鈴鹿自動車レースで優勝。同年8月の鈴鹿12時間レースで、トヨタ7に乗り優勝(大坪善男とペア)。 1969年10月、日本グランプリでトヨタ7に乗り5位。なお同年2月のトヨタ7の開発テスト中に、同僚の福澤幸雄が事故死する悲劇に見舞われている。 1970年、トヨタおよびライバルの日産が日本グランプリ不参加を表明し、日本グランプリは中止。トヨタ7はターボ装備で改良が進んでいたが、同年8月にチーム・トヨタのホープだった川合稔がテスト中に事故死したことなどを受け、開発が中断。チーム・トヨタも事実上の活動中止状態になる。 1971年、TMSC-Rというレースチーム運営の会社が発足。細谷もTMSC-Rに加わり、同年11月の日本オールスターレースでトヨタ・セリカ1600GTに乗り優勝。 1973年前後に現役を引退。以後はトヨタの嘱託として社員教育などに携わった。 現在は各種ヒストリックイベントで、トヨタ2000GTやトヨタ7などを走らせ、ファンを楽しませている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細谷四方洋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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