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細谷四方洋 : ミニ英和和英辞書
細谷四方洋[ほそや しほみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よん]
  1. (num) four 
四方 : [よも]
 (n) every direction
: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 

細谷四方洋 : ウィキペディア日本語版
細谷四方洋[ほそや しほみ]
細谷 四方洋(ほそや しほみ、1938年3月8日 - )は、広島県尾道市出身の元レーシングドライバーLEGEND OF HERO TOYOTA2000GT ~伝説は尾道からはじまった~ 〕〔TEAM TOYOTA ~トヨタの礎を築いた10人 〕。
トヨタ純血ワークスチームだった「チーム・トヨタ」のキャプテンを務めた〔。
==来歴==
父親は警察官だったが広島市で原爆に遭い殉職したという。
広島県立尾道商業卒業〔。1963年に開催された第1回日本グランプリのC-IIクラス(400〜700cc)に、完全ノーマルのトヨタ・パブリカ700でプライベーター(個人)として出場し3位〔。
その技術を見込まれ1964年トヨタワークスドライバーになる〔〔。当時のトヨタは、開発を行うトヨタ自工と販売を行うトヨタ自販が別々だったが(後に合併)、細谷はプロとしてトヨタ自工と契約し技術部に所属〔。トヨタ・2000GT開発ではボデーライン設計や走行テストを担当した〔〔『細谷四方洋 回想録 #1』: 三妻自工 Blog 〕。同年の第2回日本グランプリT-IIクラスでパブリカに乗り2位。
1965年10月のKSCCオール関西チャンピオンレースのGT-IIクラスでコロナに乗り優勝。
1966年、トヨタ自工の正式なワークスチームとして「チーム・トヨタ」が発足〔トヨタ博物館で企画展「モータースポーツ コレクション」を開催 〕。当初のメンバーは細谷、田村三夫福澤幸雄の3人で、細谷がキャプテンに任命された。2000GTプロトタイプによる速度記録挑戦の際に津々見友彦鮒子田寛がチーム・トヨタに加わり、5人のローテーションで同年10月に数々の世界記録を樹立。レースでは、同年1月の鈴鹿500kmレースでトヨタ・スポーツ800に乗り優勝、同年3月のクラブマン富士大会(富士スピードウェイのオープニングレース)でトヨタRTX(1600GTの原型)に乗り優勝、同年6月の鈴鹿1000kmレースで2000GTに乗り2位(田村三夫とペア)などの成績をあげる。
1967年4月の富士24時間耐久で2000GTに乗り優勝(大坪善男とペア)。同年7月の富士1000km耐久で優勝(同)。
1968年6月、トヨタ初の本格的プロトタイプレーシングカーであるトヨタ7に乗り、鈴鹿自動車レースで優勝。同年8月の鈴鹿12時間レースで、トヨタ7に乗り優勝(大坪善男とペア)。
1969年10月、日本グランプリでトヨタ7に乗り5位。なお同年2月のトヨタ7の開発テスト中に、同僚の福澤幸雄が事故死する悲劇に見舞われている。
1970年、トヨタおよびライバルの日産が日本グランプリ不参加を表明し、日本グランプリは中止。トヨタ7はターボ装備で改良が進んでいたが、同年8月にチーム・トヨタのホープだった川合稔がテスト中に事故死したことなどを受け、開発が中断。チーム・トヨタも事実上の活動中止状態になる。
1971年、TMSC-Rというレースチーム運営の会社が発足。細谷もTMSC-Rに加わり、同年11月の日本オールスターレースでトヨタ・セリカ1600GTに乗り優勝。
1973年前後に現役を引退。以後はトヨタの嘱託として社員教育などに携わった。
現在は各種ヒストリックイベントで、トヨタ2000GTやトヨタ7などを走らせ、ファンを楽しませている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「細谷四方洋」の詳細全文を読む




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