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細谷 直英(ほそや なおひで、天保10年(1839年)または弘化2年(1845年) - 明治40年(1907年)5月6日)は、幕末期の仙台藩士。通称、細谷十太夫(ほそやじゅうだゆう)。仙台藩の偵察方(隠密)として、行商人、土工職人、旅籠屋の下男、料理屋番頭など様々な姿に変装しながら、諸藩の情報収集に当たった。諸国のヤクザの親分衆とも交流を持つ。 == 来歴 == 戊辰戦争が始まると、細谷直英は白河城にほど近い須賀川で東北地方の大親分を含むヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成し、自ら隊長に就任した。 衝撃隊は黒装束に長脇差一本で明治新政府軍に夜襲攻撃を敢行し、新政府軍を恐怖のどん底に陥れた。衝撃隊の新政府軍への襲撃回数は30数回に及び、衝撃隊はその全ての戦いに勝利した。こうして衝撃隊は、列藩同盟軍(同盟政府軍)の主戦力となった。 細谷直英が黒装束の上に着用していた半てんの背中にカラスの文様が描かれていたことと、衝撃隊が黒装束を身にまとっていたことから、衝撃隊は新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれ大いに恐れられた。細谷直英は東北地方の民衆の英雄となり、『細谷烏と十六ささげ 無けりゃ官軍高枕』の唄が流行った。 直英は仙台藩の最後の決戦・旗巻峠の戦いに参戦し、この戦いに仙台藩が敗れて降伏すると、仙台藩から大金を授かり、それを衝撃隊の兵士たち分け与え衝撃隊を解散した。そして、自身は新政府の追っ手を逃れて逃亡・潜伏した。 新政府の捕縛を逃れた直英は、戊辰戦争の大赦令が発令されるとようやく姿を現した。こののち直英は、かつての部下を率いて宮城県と北海道の開拓に尽力した。さらに直英は、日清戦争で陸軍少尉となり、中国に渡って千人隊長として活躍した。帰国後、警視庁小隊長となる。 こののち仙台に戻り、竜雲院に葬られている仙台藩士・林子平を慕い、剃髪得座して僧となった。竜雲院の住職となり、戊辰戦争、日清戦争の戦没者を弔った。明治40年(1907年)5月6日、63歳(または68歳)で没した。法名は「竜雲院八世鴉仙直英和尚」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細谷直英」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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