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結城 時広(ゆうき ときひろ、生没年〔参考史料は、①「結城系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本(原本は松平基則氏所蔵)、所収:『結城市史』第一巻 P.664)、②「結城家過去帳」(高野山清浄心院所蔵、所収:『結城市史』第一巻 P.689)、③「結城系図」(下妻市光明寺所蔵、所収:『結城市史』第四巻 P.931)、④『続群書類従』所収「結城系図」、⑤『系図纂要』所収「結城系図」、没年月日に関してはいずれの系図でも共通しているが、享年については①が24歳、②・③・④が20歳、⑤が50歳と異なっており、逆算して出される生年もそれに伴って文永4年(1267年)、同8年(1271年)、仁治2年(1241年)の三つの説が登場することになる。『結城市史』の通史編では①に加え「結城御代記」にも掲載のある1267年生・享年24の説を採用している(『結城市史』第四巻 P.271)。〕:生年未詳(※文永4年(1267年)または同8年(1271年)) - 正応3年7月1日(1290年8月7日))は、鎌倉時代中期から後期の人物。結城氏の第4代当主。父は第3代当主・結城広綱。妻は小山長村の娘。子に第5代当主結城貞広。通称は七郎。従五位下。左衛門尉。 諱の「時」の字は、北条氏得宗家当主および鎌倉幕府第8代執権である北条時宗から一字拝領したものである〔「結城系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本(原本は松平基則氏所蔵))を見ると、子の貞広の付記に「鎌倉執権北条貞時授一字、故名貞広」(鎌倉執権北条貞時一字を授く。故に貞広と名す)とある(『結城市史』第一巻 P.664、書き下しは第四巻 P.297に拠る)ので、父である時広の「時」は北条氏の通字であるから、同系図にはその旨の記載はないものの、それと同様であることに疑いの余地はない。この頃(文永年間前後)は北条氏得宗家が「得宗専制」という独自の体制を創出している段階であり、そういった中で結城氏も家の存続のために得宗家に接近し、また従属する姿勢を示しており、時広・貞広の「時」・「貞」の字が各々、北条時宗・貞時から受けたものであることがその証拠として読みとれる(『結城市史』第四巻 P.274)。時広の場合は、父である広綱が得宗家への従属を示す一環として、我が子(時広)の元服に際し、得宗家当主である時宗にその烏帽子親となるよう願い出たものであったことが指摘されている(荒川善夫 「総論Ⅰ 下総結城氏の動向」(所収:荒川、2012年、P.11))。〕。 先代の広綱の活動は文永年間の末期に途絶えていることから、その前後に家督を継承したと見られる。それから弘安年間にかけて当主として活動した形跡がある。系図上は貞広の他に子がいた記録はなく、早世したと思われる。墓所は父や祖父(結城朝広)、曽祖父(結城朝光)と同様称名寺(結城称名寺)である。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「結城時広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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