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絵解・絵解き(えとき)は、変相図を含む説話画等の仏教絵画を物語る行為、およびそれを行う日本の職能、芸能である〔''絵解き''、世界大百科事典 第2版、コトバンク、2012年8月31日閲覧。〕〔''絵解き''、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年8月31日閲覧。〕〔''絵解き''、百科事典マイペディア、コトバンク、2012年8月31日閲覧。〕〔''絵解き''、大辞林 第三版、コトバンク、2012年8月31日閲覧。〕。当初は僧職にある者が行ったとされるが、間もなく巷間芸能化・大道芸化した〔〔〔〔。 女性の「絵解」を絵解比丘尼・絵解き比丘尼(えときびくに)、あるいは歌比丘尼(うたびくに)、勧進比丘尼(かんじんびくに)、熊野比丘尼(くまのびくに)等と呼ぶ〔''絵解き比丘尼''、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年8月31日閲覧。〕〔''絵解き比丘尼''、大辞林 第三版、コトバンク、2012年8月31日閲覧。〕。 == 歴史 == === 古代・中世 === そもそも仏教の教義をイラストレーションとして表現する「変相図」は、中国の法顕(337年 - 422年)が師子国(スリランカ)で行われていた造形物を「変現」と呼んだのが最初であり、東南アジアを通じて日本に伝えられ、日本で独自の展開をすることになる〔〔、2012年8月31日閲覧。〕。「絵解」が対象とする説話画は、曼荼羅、涅槃図、八相図、個別の寺社にまつわる祖師・高僧伝、寺社縁起、参詣曼荼羅を絵画や絵巻物、掛幅にしたものであった〔〔〔〔。とくに俗化以降は、地獄絵図(地獄変相)を多く取りあげた〔。 平安時代中期の10世紀、醍醐天皇の第四皇子・重明親王(906年 - 954年)が書いた日記『吏部王記』にある、931年の項目で、貞観寺(真言宗、現在の京都市伏見区)で『釈迦八相絵』の「絵解」が行われたのが、確認できるもっとも古い記録であり、醍醐寺の『醍醐雑事記』にも引用されている〔。 平安時代末期(12世紀)から鎌倉時代(12世紀 - 14世紀)にかけて、「絵解」は芸能として成立し、地獄絵図を琵琶の演奏とともに語った〔〔。 中世(12世紀 - 16世紀)期になると、熊野権現の勧進を目的として諸地域をめぐり歩く「熊野比丘尼」が登場する〔、2012年8月31日閲覧。〕〔、2012年8月31日閲覧。〕。小脇に抱えた大型の文箱から取り出した絵巻物による地獄絵図・極楽絵図の「絵解」をしながら、熊野牛王符と酢貝(アワビの酢漬け)を配り、歌念仏や『浄土和讃』、世間で流行した俚謡(民謡)や小歌を歌いながら、物乞いをした〔〔〔有精堂、p.10.〕。当初は尼僧であると思われていたが、遊女としての側面も備え始める〔〔。「勧進比丘尼」とも呼ばれ、また、「絵解」をする者をとくに「絵解比丘尼」といい、これらは熊野信仰による「熊野比丘尼」の一種と考えられていた〔〔。 室町時代(14世紀 - 16世紀)、俗人の「絵解」が登場し〔、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、千秋万歳法師とともに「絵解」として紹介され、描かれている〔小山田ほか、p.142.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「絵解」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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