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湖東焼(ことうやき)は、日本の陶芸の一つ、および、それによって生産される陶磁器の呼称である。「湖東」の名は琵琶湖東岸の地域名の一つである「湖東」に由来する。 江戸時代中期の彦根藩本領(現・彦根市域)で生産され始め、井伊掃部頭家の許で発展したが、幕府大老を勤めた藩主・井伊直弼が暗殺されると職人が離散して一気に衰退し、明治時代中期に途絶した。その後、1986年(昭和61年)に復興事業が立ち上げられている〔湖東焼を育てる会-湖東焼の歴史 年表 〕。 == 概要 == 文政12年10月(新暦1829年11月)、彦根城下石ヶ崎村(現彦根市古沢町)の呉服商・古着商絹屋半兵衛(寛政3年(1791年) - 万延元年6月25日(1860年8月11日))は〔 湖東焼の開祖 絹屋半兵衛 - 彦根のむかしばなし - こどもひこねっと〕〔「近江人物伝」(臨川書店 1976年)〕、当時全国的に盛業を極めていた製陶業を彦根においても興すべく、有田より伊万里焼の職人を招き〔、彦根油屋町の古着商・島屋平助と彦根藩御蔵手代・西村宇兵衛を誘って〔共同で彦根城南(芹川沿い)の晒山(晒屋地区)に「絹屋窯」を開き〔〔第二十一景 絹屋半兵衛屋敷 - 井伊直弼と開国150周年祭〕〔湖東焼窯跡 - 彦根観光協会〕、湖東焼の創始者となった。 晒山には何らかの問題があったらしく、窯の場所を佐和山山麓古沢村の餅木谷に移し、主に磁器の生産を行った〔が、未経験による失敗も多く、ついには協力者であった島屋平助等が手を引き、半兵衛単独で経営にあたった。徐々に事業も軌道に乗っていったが、しばしば資金不足に陥り、彦根藩からの借銀によって事業を維持した〔。 有田式の丸窯を瀬戸風の古窯形式に改め、湖東焼独特の淡緑色を出す物生山石(むしやまいし、佐和山北端の物生山で採取される石)・敏満寺山(現犬上郡多賀町)の粘土を用いたことは半兵衛による成果であった。染付・錦手・金襴手などの華麗な手法を用いられた文房具・茶器・飲食器が生み出され、「沢山」「湖東」の銘を記し、近江国内・京・大阪へ売り出された〔。半兵衛が育てた湖東焼は、第14代藩主・井伊直亮治世下の天保13年(1842年)〔、藩直営となった〔。創業の功として、半兵衛は伊藤の名字の使用を許された。 湖東焼は直亮と次の第15代藩主・直弼の治世下で最盛期を迎えるが、幕府大老の職にあった直弼が江戸城桜田門外で暗殺された安政7年3月3日(1860年3月24日)を境に彦根藩内の空気も一変し、政情不安の煽りで職人のほとんどが離散してしまう。残った地元生まれの4名だけでは存続も叶わず〔〔鳥居本と湖東焼き - サンライズ出版〕、藩窯は2年後に閉鎖を余儀なくされた〔。それ以降は民窯として複数の窯が存続していたものの、それらも1895年(明治28年)までに全てが閉鎖され、湖東焼は途絶した〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湖東焼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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