|
明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日 - )は、日本の第125代天皇(在位:1989年(昭和64年)1月7日 - )である〔代数は皇統譜による。〕。平成時代においては「在位中の天皇」を意味する今上天皇と呼ばれる。 昭和天皇(第124代天皇)の第一皇男子。母は香淳皇后。大正天皇の孫にあたる。御称号は継宮(つぐのみや)。皇室典範に定める敬称は陛下。お印は榮(えい、文字がお印)。勲等は大勲位。 ==人物== 1933年(昭和8年)に東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。1952年(昭和27年)に皇室典範規定に基づき18歳で成年し、1989年(昭和64年)に昭和天皇の崩御〔昭和64年1月7日内閣告示第1号 天皇陛下崩御に関する件〕を受け践祚、皇位を継承した〔昭和64年1月7日内閣告示第2号 皇太子明仁親王殿下が皇位を継承された件〕。この間、1959年(昭和34年)に正田美智子と婚姻し、浩宮徳仁親王(現・皇太子)、礼宮文仁親王(現・秋篠宮文仁親王)、紀宮清子内親王(現・黒田清子)の二男一女がある。 現在、歳である。高齢であるものの、公務・宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、天皇としての活動について非常に意欲的かつ勤勉であると伝えられることが多い。年間約1000件の書類に目を通して署名・押印し、約200回の各種行事に出席し(いずれも平成23年度)、20件近くの祭儀を執り行う。しかし、80歳を超えた2015年を機に、施設訪問の一部を皇太子夫妻、文仁親王夫妻へ引き継いだ。 歴代天皇の中では明治天皇および特に昭和天皇に寄せる気持ちが強いようであるが、皇太子時代には後奈良天皇に言及したこともある。また即位十周年の会見で述べているように、戦中育ちとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦の日)の4つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もある。 かつて琉球王国を征服した島津家の血を引いていることから、沖縄への思いは深く、琉歌を幾つか詠んでいる。琉歌を詠んだ天皇は史上初めてである。 1970年(昭和45年)からチェリスト・清水勝雄に師事してチェロを嗜むほか、テニスをよくする(これは皇后と知り合うきっかけにもなった。いわゆる「テニスコートの恋」である)。このほか馬術、自動車の運転にも秀でている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明仁」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Akihito 」があります。 スポンサード リンク
|