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『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)は、江戸幕府により編集された漢文編年体の歴史書。寛文10年(1670年)成立。全310巻。 ==内容== 江戸幕府の修史事業として編纂が行われ、林家の林羅山、林鵞峯(春斎)父子を中心に編纂された。前編3巻(神代)、正編40巻(「本朝編年録」に元からあったのは正編。神武天皇~宇多天皇)、続編230巻(醍醐天皇~後陽成天皇)など、全310巻から構成される日本通史。 神代から後陽成天皇(1586-1611在位)の代までを記している。倫理的な判断を避け、史実を書くことが方針とされているという。 3代将軍徳川家光時代の修史事業で、林羅山が編纂した『本朝編年録』は正保元年(1644年)に上梓されるが、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼失。寛文2年(1663年)10月、将軍徳川家綱の上意として林鵞峯に編年録の完成を命じられ、翌寛文3年8月に幕府老中の連署奉書で幕府の許可がおり、忍岡の林邸での編纂が開始される。日本には延喜年間以降の正史が無く史料収集など事業は難渋し、翌寛文4年、鵞峯は老中酒井忠清に古記録の収集など必要な援助を要請。7月には永井尚庸が奉行役に任じられ、諸大名や朝廷、寺社などに所蔵する諸記録の提出が命じられる。8月には林邸に幕費で編纂所としての国史館(弘文院)が建てられ、本格的な編纂事業として進められた。 編纂期間中の寛文2年(1662年)には中国で明朝から清朝への王朝交代があり、幕府の修史事業にも影響を与えているという。書名は当初『本朝編年録』であったが、中国宋代の史書『資治通鑑』に倣い、『本朝通鑑』に変更されたという。編纂は着手から7年、寛文10年(1670年)に完成し、6月には中書本が将軍家へ提出される。清書本は紅葉山文庫と日光東照宮に納められた。 水戸藩主徳川光圀は、この書中に「(日本人が)呉の太伯の末裔である」という記述を発見して憤慨して独自に修史事業を起こし、編年体の本朝通鑑に対し、積極的な人物評価を行う紀伝体の『大日本史』編纂のきっかけになったといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本朝通鑑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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