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綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月27日 - 1907年(明治40年)9月14日)は、日本の宗教思想家、評論家。 == 生涯 == 岡山県上房郡有漢村(現高梁市)生まれ。本名・栄一郎。明治23年に岡山の高梁教会で古木虎三牧師より洗礼を受ける。 明治25年(1892年)に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学する。坪内逍遥、大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。 横井時雄の本郷教会や植村正久の一番町教会に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。 肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎、神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復する。 文芸評論家として活動すると同時に、倫理学者としても活動した。病身になってからは、主に宗教の論評を発表するようになり、明治38年(1905年)に『新人』に発表した『病間録』「余の見神の実験」は大きな反響を呼んだ。この宗教的な思索は、安倍能成、斎藤勇らに大きな影響を与えた。綱島は禅宗や浄土真宗などからも学んだが、最後までキリスト教信仰に立っていた。 肺結核のため満34歳で死去。〔高橋2003年,200-201頁〕 没後、綱島を敬慕する人々により、各地で梁川会が起こった。弟子の一人の宇佐見英太郎が梁川会の参加者の所感をまとめて「回覧集」全7巻を編集した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「綱島梁川」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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