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綾櫻 由太郎(あやざくら よしたろう、1898年3月11日 - 1982年12月8日)は、青森県西津軽郡出身の元大相撲力士。本名は清野 由太郎(きよの(せいの) ゆうたろう)。 == 来歴 == 1898年3月11日に青森県西津軽郡で生まれる。地元の小学校を卒業してから近所にあった桜庭呉服店へ奉公に出ていたが、相撲好きな呉服店の店主から影響を受けて土地相撲に出場して実力を付け、入間川部屋へ入門、1916年1月場所で初土俵を踏んだ。 立ち合いから一切頭を上げないまま攻める堅実な取り口で、組んでから時折足癖を見せて相手を倒した。しかし、脚気を患ったことで一度帰郷し、1年後に前相撲から再出発した。こうした苦労の甲斐あって1922年5月場所で新十両昇進を果たしたが、僅か1場所で幕下に転落して以降は幕下暮らしが長くなった。再昇進に自信を失っていたところへ、大連での巡業で同郷の画家・野沢如洋からに小野道風作「柳に飛び附く蛙」の絵を貰って激励されたうえ、大ノ里萬助がやってきて猛稽古を付けられたことで奮起し、1927年10月場所で再十両昇進、1930年5月場所で悲願の新入幕を32歳で果たした。 入幕後は大きな勝ち越しこそ無いものの、少しずつ番付を上げていく。東前頭4枚目で迎えた1931年10月場所では10勝1敗の好成績で平幕での幕内最高優勝を果たしたが、当時の地方場所では優勝額が存在せず、子供や孫に優勝を報告しても信用してもらえなかったという。1932年1月6日に春秋園事件が勃発すると日本相撲協会を脱退するが、1933年1月場所にて幕内格別席で帰参した。1934年5月場所からは綾川 五郎次と改名し、1935年1月場所では関脇へ昇進した〔日本相撲協会のホームページでは、このときの綾川を最年長新三役としている〕。しかし、新関脇で迎えた1935年1月場所では2勝9敗と大きく負け越したために1場所で平幕へ降格、さらに1937年の年末には、九州の巡業で新海幸藏と口論の末に喧嘩となり、新海からビール瓶で頭を殴られた。新海は加害者であることで強制的に引退させられたが、綾川は被害者でありながらなぜか非難を受け、半ば強制的に引退させられた。 引退後は、年寄・千賀ノ浦を襲名した。1937年6月準本場所では、当時27連勝中だった双葉山定次を外掛けで破り、後に出羽海一門で「打倒双葉」を合言葉に対策を繰り広げる手掛かりを見つけた功労者とされた。この時の功労をたたえて相撲作家の石井代蔵はもう一人の安藝の海という異名を綾櫻に与えた。〔1940年1月場所を最後に廃業後、京城で旅館を経営したが、第二次世界大戦の終戦後に帰国して、綾川五郎次(先代)と同じように明治大学相撲部の師範を務めた。判りやすい指導で学生から人気を集め、さらに相撲部員の世話によって、柳橋で料理店を経営した。 1982年12月8日に死去、。戦前に幕内最高優勝を達成した最後の生き残りだった。現在は青森県五所川原市に綾川の記念碑が存在する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「綾櫻由太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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