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緋本 祥男(ひもと さちお、1935年3月6日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手である。ポジションは外野手、一塁手。1954年から1963年までの登録名は、緋本 祥好。 == 来歴・人物 == 県立西宮高校を卒業後、1954年に広島カープへ入団〔カープ50年 夢を追って、中国新聞社、1999年11月、P56〕。入団後最初の2年間は2軍にいたが、1955年の秋に日本での試合で来日したメジャーリーガー、エルストン・ハワード(ニューヨーク・ヤンキース)の極端なクローズドスタンスからヒントを得て、さらに川上哲治の話に出てきた、部屋の中にろうそくを立て、振ったバットの風力で火を消すという練習法も覚えて初の1軍昇格を目指し練習した〔。その成果はすぐに出て翌年には1軍へ昇格し、センターのレギュラーを獲得して105試合に出場した〔。15本塁打はチームでもトップの成績で、同年福山で行われた試合ではバックスクリーン越えの本塁打を打っている〔。しかし、この年の秋季練習で内角球を避けきれず左手首に当てて骨折してしまい、その事もあって内角球に対して腰が引けるようになってしまった〔。さらに1957年からは新設された広島市民球場でのナイトゲームが増え、元々視力が0.4と悪かった緋本にとっては痛手となり厳しい試合が続いた〔。この年(1957年)は5番打者として120試合に出場したが、打撃成績は前年よりも落ちてしまった(打率.236、4本塁打、25打点)〔。その後はレギュラーの座を失い、成績も徐々に下降していった。1961年、東映フライヤーズへ移籍すると、外野手から一塁手へ転向した〔。1962年には、フライヤーズでリーグ優勝と日本シリーズ優勝を経験〔。1964年オフに引退した〔。 引退後は、ダイエーのグループ企業である大栄商事(大阪府吹田市)に勤務(1969年~)。1988年から1992年まで、同社の代表取締役を務めた〔。現在は中部衛生検査センター相談役〔団体概要 - 日本プロ野球OBクラブ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「緋本祥男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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