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緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 - 1952年12月16日)は、石川県上新川郡(現:富山県滑川市)出身の元大相撲力士。本名は高木 友之助(たかぎ とものすけ)。 == 来歴 == 1878年1月12日に石川県上新川郡で農家を営む家に二男として生まれた。父親は土地相撲で「緑山」の四股名で大関を務め、友之助も17歳の時点で5斗俵を差し上げて村人を大いに驚かせるほどの怪力を持っていた。当初は京都相撲に加入していたが、兄弟子からいじめを受けたために間もなく帰京し、隣村にあった春日山部屋へ、序二段・春柳の世話で入門した。 東京相撲では1898年1月場所で初土俵を踏むとすぐに頭角を現し、1901年1月場所で新十両昇進、1902年5月場所で新入幕を果たした。僅か24貫の軽量力士だが、怪力で土俵際での吊り・寄りを得意としていた。1908年5月場所で小結に昇進すると駒ヶ嶽國力に滅法強く、双葉山定次曰く「駒ヶ嶽はワシ(緑嶌)がいたから横綱になれなかったのだ」と発言していたという。駒ヶ嶽國力以外にも1914年1月場所では常陸山谷右衛門から金星を奪うなど、持ち前の怪力を生かして上位を苦しめた。土俵の外においても、1911年の新橋倶楽部事件では外交交渉委員として活躍した。 1915年6月場所を2勝8敗と大きく負け越し、十両降格が決定的になったのを機に現役を引退し、年寄・立浪を襲名して独立、立浪部屋を創立した。当時の相撲界において最大勢力だった出羽海部屋一門に対抗して「打倒出羽」の執念を燃やした。創設当初の立浪部屋は両国駅の高架下に建てられ稽古場すら持たなかったが、双葉山定次・羽黒山政司の戦前を代表する二人の横綱や、大関の名寄岩静男など数多くの名力士を育て、一代で部屋を角界屈指の名門に引き上げた。晩年の弟子には後に「立浪四天王」と呼ばれる若羽黒朋明・時津山仁一・安念山治・北の洋昇がいる。1932年に勃発した春秋園事件以降は、日本相撲協会の取締を務めた。一方で黎明期の苦難からどうしても吝嗇の傾向に陥りがちであったといい、弟子の双葉山と不仲になった原因は双葉山が娘との縁談を断った他に、日頃から一門内巡業の収益配分で自身と対立していたことにもあるとされている。 1952年12月16日に死去、。なお、立浪の死去から丁度16年が経過した1968年12月16日には、弟子である双葉山定次(時津風理事長)も没している。 中国哲学者で、後に中央大学総長を務める髙木友之助は長男にあたる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「緑嶌友之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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