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總持寺祖院(そうじじそいん)は、石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗の寺院である。山号は諸岳山。通称、能山(のうざん)あるいは岳山(がくざん)。 かつての曹洞宗の大本山「總持寺」。本山の機能が横浜市へ移転する際に、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」は「總持寺祖院」と改称され別院扱いとなる。 == 歴史 == 元は諸岳寺(もろおかじ)と呼ばれた行基創建と伝えられる密教系寺院(一説には真言宗〔『日本仏教史事典』説〕)。 1321年(元亨元年)に当時の住持である定賢が霊夢を見て越中国永光寺にいた瑩山紹瑾に寺を譲った。瑩山紹瑾はこれを禅林として改め、総持寺と命名して開山となった。 翌年、瑩山紹瑾は後醍醐天皇よりの勅問10問に答えた褒賞として、同寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の寺額が授けられたとするが、伝説の域を出ないと言われている。 1324年(正中元年)、瑩山紹瑾は「諸岳山十条之亀鏡」を定めて寺制を整えた。その後、寺を継承した峨山韶磧によって整備され、五哲と呼ばれた門人によって5ヶ所の子院が設けられた。曹洞宗の多くの寺院が同寺の系統をひき、本山の地位や諸権利を巡って越前国永平寺と論争を行うこともあったものの、「能登国の大本山」すなわち能山として親しまれた。 室町幕府や地元の能登畠山氏・長谷部氏の庇護を受ける。 1570年(元亀元年)の戦乱で焼失したものの、新領主の前田氏のもとで再興される。 1657年(明暦3年)には寺領400石が与えられるなど、加賀藩時代を通じて手厚い保護を受けた。 また、江戸幕府は1615年(元和元年)永平寺・總持寺をともに大本山として認めるとともに徳川家康の意向で1,000両が寄付されて幕府祈願所に指定された。住持の地位は5つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)による輪番制が採られたが、1870年(明治3年)の栴崖奕堂以後独住の住持が置かれた。 1898年(明治31年)4月13日の大火で開山廟所である伝燈院経蔵といくつかの小施設を除いた全山を焼失した〔明治31年4月15日読売新聞『新聞集成明治編年史. 第十卷』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。 1905年(明治38年)再建されたものの、これを機により大本山に相応しい場所への移転を求める声が高まる〔地元では移転反対運動があった「能本山騒動」東京朝日新聞 明治39年8月22日『新聞集成明治編年史第十三巻』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。 1911年(明治44年)11月5日、横浜鶴見への移転遷祖の儀式が行われ、以降能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「總持寺祖院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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